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諸葛亮の南征における意義

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紫苑
紫苑
223年、劉備の崩御により、蜀の南方にある南蛮地域は反乱を繰り返し行うようになりました。

前回お伝えした通り、蜀の国是「魏を倒して漢王朝を再興する」を目指す為には、南蛮地域の征圧が必要不可欠です。

そこで225年3月、諸葛亮は南蛮地域への征圧を開始。
翌年1月、征服を果たし帰還したのでした。

では、この南征で得たのは何が有ったのかを3つ取り上げます。


① 南蛮地域の物資確保・産業振興

南蛮地域で採掘されていた金・銀・大理石・水銀といった財宝資源ならびに、耕牛(こうぎゅう)・軍事用の戦馬(せんば)といった軍需物資の確保に成功を収めました。

また、漢嘉(かんか)の金や朱提(しゅし)の銀を採掘をするといった、新たな採掘地の開発および武器の生産・精製をしました。


② 諸葛亮の軍事経験値獲得

諸葛亮はこの南征前、戦地で指揮を執ったのが入蜀戦(214年)のみ。

しかも、この戦は張飛に単独行動を執らせたことから、実質ほとんど経験が無いものでした。

そこでこの南征は、諸葛亮にとって、きたる「北伐への軍事演習」としての意味合いが有ったでしょう。


③ 西南シルクロードの再開

成都から雲南・ミャンマー・インドを結ぶ交易路・西南シルクロードは、2200年ほど前(前漢の時代)に開拓されました。




上の写真は、成都近郊の三星堆(さんせいたい)博物館にある西南シルクロードの地図です。



この行路、後漢が衰退になるにつれて朝廷からの管轄区域で無くなりましたが、諸葛亮の手で再開。
そして再開したルートは、諸葛亮が南征したルートとほぼ一致しています。


これにより、成都からは特産品の錦、南蛮からは先述の金銀や竹や木でつくった民芸品をミャンマー・インドへ交易することによって、蜀の経済を発展させたのです。




222年の夷陵の戦いによる敗戦で、蜀軍は大きな損害を被りました。

しかし、この諸葛亮による南征で蜀の経済力・軍事力の増大に成功を収め、国内から大きな異論が出ることなく北伐へ侵攻したのです。




以上となります。
明日は休み。明後日は三国志の引き立て役を投稿します。
更新日時:2023/01/29 21:45
(作成日時:2023/01/29 20:54)
カテゴリ
雑談・雑感
コメント( 2 )
sai
sai
2023年1月30日 18時49分

へー!南蛮て資源が豊富だったんですねー。
関係ないですがうろ覚えで、蜀は良質な銅が取れたから武具の質がよかったとかなんとか聞いた気がwどうなんでしょう?……(・∀・)ドウダケニ
 
軍事演習と資材確保、そして後方の憂いの排除。南蛮平定は
やはり重要だったんですね。

経験値と

紫苑
紫苑
2023年1月30日 21時16分

>saiさん
説明不足ですみません(汗)
銅も取れていたそうです。
あと、三国時代は採掘されてなかったようですけど、上記の地図にある大理では、語源となる大理石の産地だそうですよ。

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