蜀の国是(国の基本方針)は、「魏に打ち勝って漢王室を再興」するというもの。
三国の中で最も強大な魏に立ち向かうには、推定6:1という圧倒的な国力比をどう縮めるか・・・
この難題に諸葛亮は、いかにして内政を施政したのか見てみましょう。
■ 農業・産業の振興
まずは、蜀の巨大な水利灌漑施設として有名な都江堰(とこうえん)。
現在は世界遺産として有名なこの施設に、新たに堰官(せきかん)を設けることにより、水利を管理して豪族の水利独占の阻止・農産品の生産能力向上に対応しました。
次に司塩校尉(しえんこうい)を設けて、塩と鉄の専売を実行して大きな利益。
更に、もともと蜀の特産品として有名な錦(にしき)を目につけて、生産拡大・ブランド品「貝錦」(ばいきん)や「黄潤」(こうじゅん)などの誕生に成功を収めました。
■ 公平で厳格な法治国家づくり
『正史三国志蜀書』によると、諸葛亮は官職を少なくし公正な政治を行いました。
そして、利益を与えた者には必ず賞を与え、法律を犯し職務怠慢な者には、身内であっても必ず処罰をしました。
この辺りは、
「泣いて馬謖を斬る」に当たるでしょうね。
その一方、善い事には小さなことでも必ず賞をしたとされております。
■ 益州の人材登用と発掘
諸葛亮は、現代の大学に当たる高等機関を設置して、人材の育成に当たりました。
そして、このような人材をそのまま朝廷の官僚に採用したという訳ではありません。
もともと諸葛亮は、「有能な高学歴で官僚肌の人物を集めると、おごり高ぶって民衆の目を向かない」という持論。
でしたので、有能な民間人の発掘にも力を入れておりました。
また、劉備・諸葛亮は、荊州から益州へ「乗っ取った」格好ですので、現地の益州の人々の中には反乱分子がそれなりに存在しました。
そこで、入蜀に最後まで抵抗した黄権や鄧芝といった「益州人士」を積極的に登用し、登用された鄧芝は、呉との国交回復に尽力を尽くします。
この国交回復が、蜀の南部・建寧を拠点とする
呉からの支援及び内通していた雍闓による反乱を抑える事にも成功を収めたのです。
これにより、諸葛亮による蜀の南征・魏の北伐への足掛かりと繋がったのです。
以上となります。
明日は諸葛亮の南征についてです。
孔明の凄いところは北伐繰り返しても国内で内乱らしい内乱がなかったこと、あんな険しい道で軍行繰り返しても兵の士気が落ちなかったことだと思う。やっぱり土台の内政がかなりしっかりしてたんでしょうね。
>saiさん
本当に孔明は、政治家としてみたら◎ですね。
次回の投稿では、「こりゃ孔明に文句を言えないわ」と思えるほどの蜀の発展ぶりをお伝えしますよ^_^
そもそも諸葛亮さんは内政屋さんで軍略屋さんじゃないですもんね(´・ω・`)
>炎頭の群れさん
そうです!
本当は諸葛亮を内政専属でやってもらいたかったです。
しかし、張飛と馬超がいなくなった以上、軍事も掛け持ちせざるをえなかったのは、ある意味不幸ですよね>.<
繰り返しになりますが、軍事面を魏延にもう少し任せていれば、面白かったのかなと思います。
>みいけんさん
魏延は、諸葛亮との間で演義ほどではないにしろ、戦術面で食い違いによる軋轢(あつれき)が有りましたからね。
あとは、楊儀とか仲違いをした点で任せるのには難しかったのでしょう。