三国一の勇将と言えばだれが思いつくでしょうか?
そうです、「
鄧艾」ですね
でも漫画とかアニメとかでいうと鄧艾のことってあまり印象にありませんね。
なんとなく凄い武将みたいなイメージだけあるけれど、活躍は聞いたことがない。蜀を征伐して鍾会に道半ばで殺され(裏切られ)ちゃった…みたいな…?そんな印象です
なので今回は鄧艾について調べてみました。
今回はまとめる際にgoogleスプレッドシートで死ぬほど辛い思いをしたのでGoogleドキュメントに変更しました。直接貼り付けをしても画像も同じ単位で全コピーできます。代償として矩形を失いました。
※筆者のまとめ能力が低かったので前後編になります。前編はあまり内容がありません。後編もありませんが、そもそも後編はまだ書いていません
鄧艾は諸葛靜と違って三枚もあります。
恐ろしい、そして喜ぶべき格差です。上の三枚は、想定される年代順に左から並べています
まず一枚だけある魏の鄧艾ですが、二つ名にある「典農綱紀」というのは役職名です。台詞が橋本真也みたいですね
鄧艾は生まれ年が分からない出自ですが、来歴として曹操は蹋頓・袁尚・袁煕等の烏丸族を征伐した翌年(蒼天郭嘉が好きな人は印象深いエピソードです)荊州の征伐に向かいますが、劉表の病死、劉琮劉琦の身内争いにより、あっさり荊州を占拠します
荊州と聞くとちらほら聞くけど…?という方、ここは統治者がコロコロと変わる三国の要所であり、蜀成立後に関羽が統治していた場所も荊州です。
関羽が死んだ理由も言ってみれば荊州を巡る戦いによるものなので、三国が唯一相互的に所有を争った場所が荊州と言ってもいいでしょう。
カードにもなっている!知らない?コロコロ読んでた?デュエルマスターズ読まなかった?
話が脱線しましたが、この荊州の占拠によって荊州から屯田(農地開拓、開墾)用の民として連れられた人たちの中に子供の鄧艾がいました。連れてきとくもんだな!
裏面では「文は世の範たり、行ないは士の則たり」と書かれた陳太丘(陳羣の祖父)の碑文を読んで、自分の名前を鄧範、字(あざな)を士則とした際のエピソードが書かれています。しばらくして、一族に同じ名前をつけた人が出たので、名前を鄧艾、字(あざな)を士載と変えました。なんのエピソードだよ
改名についてはなんとなく現代の感覚で言えば、なんで名前が被ったとかでコロコロ改名しているんだ…という気がしてしまいますが、古代中国では人の「名」を呼ぶことが失礼に当たりました。
その為名前があるのに「字(あざな)」を用いて互いを呼ぶか、役職者については役職名で呼んでいました、それだけの意味が名前に持たされていた時代であったということでしょう
字(あざな)に関して三国志を見て気になったのは、孟達は劉備の叔父に同じ文字を含む字(あざな)の人がいるという理由から(頼まれて、または信頼を得るためかもしれませんが)改名しています。そこまで気にしていたんでしょうか、やはり現代の感覚ではちょっと分からないです
日本でも古い世では実名で呼ぶのが失礼に当たり、戦の時など明らかな敵対状態の場合にのみ名前で呼び合うというようなことがありました。
「真田ぁ幸村ぁ!」「伊達ぇ政宗ぇ!!」といいながら六爪と十文字槍を重ねるシーンは戦争状態を表していたんですね。
恋姫無双の真名設定もそんなところからきたのでしょうか、残念ながらモンスター・コレクションからではないようです
話が脱線しました(2回目)「典農綱紀」が役職名という話だったはずなんですけど
まず鄧艾は同郷の石苞と魏の役人として働き始めます。
始めは違う役職だったのですが吃音のため出世できず、農業を勉強して「典農綱紀」となりました
この頃から高い山や沼を見かけると軍営を設置するのに適切な場所を探し、計測する地図作りが趣味になります。
鄧艾が将来のことを考えての事だと考えられますが、このことからか魏鄧艾には将器「地の利」が付いていますね
農業、地図作り等、地形を見るのに最適な武将に最適な将器といっていいでしょう!SEGAのそういう所が好きだったんだよ!
なので夏侯徽が城門特攻を持っている件については不問にします。帰らない夫、冷めていく夕飯…城門に特攻したい時だってあったでしょう
その後、昇進を続けた鄧艾は司馬懿に気に入られ属官になります
そこで呉との対立を見据えて、魏の食糧事情を見直しますが…この話は本当に三国志大戦に関係ないので割愛します
ざっくり言うと「昔は黄巾が来たからひ弱な土地で農作してたけど、今魏が最強だし無駄にひ弱な土地で作った米を運ぶのって大変だから、呉に近い良い土地に水引いて米作って船で送ったら最高じゃん!!」っていう認識です。これを進言したところ司馬懿は取り入れられ、運河ができました
それが241年のことです
大分飛びましたね
ここが鄧艾の分かり辛いポイントだと個人的には思います。
生年が分からないため、正確な年齢は分かりませんが、上記の期間を簡単に整理すると
208年荊州占拠(当時不明)⇒12歳で改名⇒241年大功を為す
となりますが、これで見ると208年に乳飲み子だったとしても33歳、改名直前だったとしても45歳前後の想定です
間を取って40歳としても、この時期までの鄧艾は完全な文官ということになります。
仕方がありませんが、三国志の感覚で言えば凄く遅咲きの武将に感じてしまいます
この8年後、249年に姜維が攻めてくる際「やっと」と言っていいですが郭淮に従う形で軍事方面で(大きな)表舞台に立ちます
しかして姜維と言ったら北伐のイメージが個人的にはありますが姜維のことも全然知りません。僕は三国志を知っていると言っているが何も知らないのだな…と一人憂鬱になります
ということで上にまとめると諸葛亮がこの世を去ってから既に15年が経っていますね。
諸葛亮死後4年、蒋琬を大将軍にした北伐軍が組まれ侵攻を開始します
なんか顔の怖えオッサン紛れてんぞ、と思った方もいるかもしれませんが裏のフレーバーテキスト通り、蜀としては単独で攻めるのではなく、反乱に乗じて攻めるなど手練手管を尽くして魏を攻めていますが、北伐は失敗、243年には主力軍は一旦漢中を退きます
241年には呉も便乗(協力)して魏を攻めていますが、そんな中孫登が病没、孫権在位の中皇太子が亡くなり、翌年から孫和と孫覇の不和が…というそんな時期です。
どうしても横山作品やキャラクターイメージから諸葛亮死後、姜維が北伐を繰り返すが失敗…という短絡的な三国志の終焉をイメージしてしまいましたが、実際にはそんなことはないようで、主力軍の撤退というのも後世の人間の目線で言えば、魏征伐自体鼠が猫をつつくようなもので主力で攻め続ける意味がないと判断するのも頷けるところがあります
話を戻して249年、姜維が異民族を鎮圧し、北伐の地盤を固め向かいますが…郭淮鄧艾率いる魏軍を前に失敗します。
この北伐の際、蒋琬は既に亡くなって費禕が大将軍を継いでおり、姜維が自分が西方に風俗に明るいこと、優れていることを理由に大軍団で北伐をするべきだと願いましたが、一万以上の兵は与えなかったといいます。
また費禕が語る「丞相ができなかったのに俺たちでできるわけないじゃん。もうちょっと内政を頑張ってからにしようよ」というのも、すれ違いのむなしさがあります。
考えたのですが、この頃の姜維の立ち位置が分かりません。功を焦るような必要のない人物に思えますし、死期も近くありません。丞相の死からは15年が経過しており、賢い姜維なら今攻めてどんな戦果を得られるかはわかりそうなものですが、どこにはやる気持ちがあったのか…そんなことからか姜維は情の人だという印象があります
正直な話、今作に至り郭淮のイメージも変わりました。昔は反計持ちの便利パーツ程度の印象だったのに今ではあんなに立派なロボになりました。どんな世界観だよ。クロマティ高校か?麒麟児のイメージも変わりました。孔明の後継者じゃなかったんだっけ?シャフトより反ってないか?
鄧艾に戻るとこの戦いにより姜維を撃退した鄧艾は更に昇進を続けていきます。
さてここからが良く知る鄧艾の部分なのですがたらたらと書いていたらまとまりが悪くなってきたので後編に続けます。きっと書きます。でもここからの鄧艾はみんな知っているので書かなくてもいい気がしてきました。
晋の武将は馴染みが薄い人が多いのでこういう記事面白いです(о´∀`о)
鄧艾はとにかく地形を測定しまくる地理オタクというイメージが強いですね。
後編待ってます!