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史実解説〜三国志に至るまでの中華の歴史④〜

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燈蝋之斧
燈蝋之斧
こんばんは! 燈蝋之斧です!

この前の休みに、ガンプラでHGUCグスタフ・カールを組み立てました。あ、これはスミ入れした位です。ガチでやる時は、ミキシングや塗装、トップコート、線消しとかもやります。ジムⅢティターンズ仕様、ジム改NT用機とかIF機体作るのが、楽しいです!

しかしまあ、グスタフ・カールは大きい。私は重MS好きなので、結構お気に入りです。ドライセンにジ・O、リックドムⅡ辺りも好き。

さて、今日は、長らくお待たせした歴代王朝の史実解説最後の投稿です。新と後漢の解説ですね。

後漢はともかく、新については多分そんな詳しい人はいないと思います。かくいう私も、今まで話した年代の中では1番新がわかってないです。

一応、中華の歴史の中ではそれなりに重要、というかある方面から見ると結構重要です。まあ、新というか新の建国者である王莽が。

そのある方面とは、ズバリ王朝簒奪の先駆者として。新は歴史上初の禅譲により生まれた国家です。だから、後の世の簒奪者達は王莽のやった禅譲の手順を結構参考にしてます。

具体的には、九錫の要求や伝国の玉璽の引き渡し、数回断った上で禅譲を受ける等。ええ、魏の曹丕がやった事の前身ですね。

まあ、王朝としては魏のが機能してた気しますがね。統一王朝ではないけど。

ま、ここら辺の事はまた後で説明します。

前の解説はこちらからどうぞ!

では、始めます!


・新(A.D8年〜A.D23年)

国名は王莽の封地である新都から。建国15年で滅んでるので結構な短命政権です。建国者の代で滅んでるしね。秦、新、晋と読み方しんは短命な政権多いですね。

さて、新の成り立ちを説明するには前漢末期の凋落を説明する必要があります。

前回、私は前漢は概ね成功した国家だったと評したかと思います。ただ、これは武帝の子の宣帝までの事。宣帝の子の元帝は優柔不断で宦官の跳梁を生み、その子の成帝は外戚である王氏(王莽もこの一派)に跋扈され帝権は失墜します。

成帝は子がなく、甥の哀帝を後継者にしますが、哀帝は男色家とまあ難有り。哀帝の次の平帝は王莽に毒殺、後継は2歳で王莽の傀儡。ここに来て前漢の命脈尽き、禅譲……とまあこんな流れです。宦官、外戚、男色家、少帝は普通に滅亡への役満ですね。

ちなみに王莽は元帝の皇后王政君の親族で外戚です。それでまあ儒教大好きでした。伯父に恭しく接したりと最初は評判良かった。

でもまあ、権力を握るためにはかなり非情な手段を使いました。民衆の人気取りのために、自分の息子らに罪をぶち上げて自殺に追い込んだり、帝毒殺したりね。あとは、予言書偽作して自分が皇帝になれるように工作したり。袁術から人間性奪って知能足したら、王莽かな?

ちなみに、皇后や太后が禅譲の際に伝国の玉璽をぶん投げる慣習が出来たのも新が最初(曹節は2回目)。王政君が王莽の簒奪にキレ、玉璽ぶん投げました。この時に、玉璽の取っ手の龍の角部分が欠け、金で補修したそうです。この玉璽と魏の玉璽は同一だと考えられるので、曹節がぶん投げた時にまた壊れた可能性があります。玉璽君、大事なものなのに扱いぞんざい過ぎません?

なお、王莽の人柄を示すエピソードは次の通り↓


・捕虜を生きたまま解剖し、全身の記録を取った
   (チョコラータかよ!)

・身長173センチと当時にしては高身長なのに更に上底の靴を履いて、さらに胸に羽毛パット入れ、目は遠くのものを見るような目付きをしていた(要は見栄っ張り)

・天に泣く役目のための役人を五千人も登用した



とまあ、儒学を曲解したような腐れ儒者みたいな性格をしていました、王莽。

政治的にも現実離れした政策を行い経済政策失敗したり、華夷思想に基づいて周辺民族の王号を取り上げて侮蔑的な名前で呼んだり(高句麗を下句麗と呼んだりね)し、武力衝突した結果負けたりと新は建国時点で失敗してました。

その結果、地方反乱が相次ぎ赤眉の乱・緑林軍の蜂起を招き昆陽の戦いで公称100万(実数は40万程度)の王莽軍は劉秀(後の光武帝)率いるたかだか数千の兵に負けます。

これにより、新はかなり揺らぎます。そして、王莽は同年混乱の最中に商人に殺され、新は滅亡しました。

ちなみに、王莽の首は宝物とされたそうで、250年以上後の晋まで倉庫に眠ってました。なお、火事で焼失したとの事。ホントかよ! というか、そんな変なモン取っておくな!

新滅亡後は、更始帝(劉秀の親族)が立ちましたが、これは長続きせずに死亡。劉秀が光武帝となり漢を継承、内乱を治めて天下統一しました。これが後漢の始まりです。

正直、王莽は統治能力に欠けてました。というか、儒教に偏り過ぎると大体現実見えなくなる感。三国志でも孔融の青州統治は理想主義的過ぎて、上手くいかなかったらしいし。

てな訳で、後漢行きますね!


・後漢(A.D25年〜A.D220年)

後漢を語るには、光武帝の事も語らねばならないでしょう。ざっくり言うと、光武帝はかなりチート超人。色んな逸話に事欠かない人です。

さくっと紹介するとこんな感じ↓


・昔から慎重で思慮深いと信用があり、劉秀が挙兵した時には多くの人が従った

・挙兵直後は馬が手に入らずに、牛に乗って戦っていた

・寡兵で王莽の大軍に勝つ

・皇帝即位後に夜遊びして城の門限を守らず、部下に城門閉じられて仕方なく野宿する(2回は最低あったらしい)

・皇帝即位後も前線で得物を振るい、反乱鎮圧

・ジョークが好きでちょいちょいボケて部下を笑わした



とまあ、カリスマ性あり勇猛かつ知恵もあり面白いおじさんとマイナスポイントない人でした、光武帝。一度滅んだ王朝を再興、部下の粛正はしないのもポイント高い。正直、名君過ぎてヤバイ。

政策面でも、五銖銭の再鋳造で貨幣経済を支え、屯田兵を使い飢民を減らす、税を下げる、周辺民族の王号を戻したりと民心を安定させる良統治を行いました。実はここが後漢の最盛期だったり。

ちなみに、光武帝の皇后は2人おりました。最初の郭皇后がワガママ過ぎたので廃して、光武帝の元憧れの美女陰麗華が皇后となりました。なお、陰麗華はかなりの賢妻で自分の一族を贔屓しませんでした。

また、陰麗華が皇后になったため、郭皇后の子の劉 彊(りゅうきょう)が自ら皇太子の座を降り、陰麗華の子の明帝に譲りたいと言うなど光武帝の家族は概ねまともでした。ちなみに劉キョウは劉虞の祖先です。ああ、劉曄の祖先が光武帝なのも言い忘れてましたね。

2代目の明帝も名君で皇后の馬皇后(名将馬援の娘。馬援は馬騰・馬超の祖先)も賢妻で、外戚の力を抑えました。3代目の章帝までが一般的な後漢の全盛期ですね。それ以降は外戚と宦官が力を振るう時代となります。まあ、桓帝くらいまではまだギリギリ見れたかな?

ちなみに後漢は即位時に成人してる皇帝がめちゃくちゃ少ない事で有名。光武帝と明帝くらいしかいない。あと、早死率が高い。なんと、50歳越えれたのは光武帝と献帝しかいない事実。そりゃ、外戚や宦官が調子乗りますわ。

だからまあ、割と出オチ気味なのです、後漢。一応文化的には、紙の発明やら儒教の振興、円周率の近似値発見、天球儀開発、仏教伝来、漢書等の歴史編纂に建安文学とか色々ありますけどね。

最後は皆さんご存知、献帝が曹丕に禅譲し後漢は滅びます。まあ、蜀やら前趙やらが漢の後継自称したりしましたが、劉氏の建てたまともっぽい漢はこれでおしまい。あとはまあ、名前だけです。ガンダムで言えば、火星独立ジオン軍かみたいな連中かな?

で、ここからが三国志の時代な訳ですね。


……てなわけで、ざっくりですがおしまい。4回に分けて駆け足でしたが、読んでくださった方ありがとうございます!

まあ、ぶっちゃけかなり端折ったので多分わかり辛かったかと思います。うん、戦国四君も春秋五覇もほぼ出せなかったしね。私が大好きな田単や藺相如、晏嬰も出せなかった。

今上げた人全部わかる方は私なんかの解説は不要かと思います。

次からは、普通に三国志の年代でつらつら書いてきます。流石に五胡十六国時代は私も把握してないので、あしからず。応仁の乱並みにアレよくわからんのよね。

では、失礼!
作成日時:2019/10/22 21:02
コメント( 11 )
11件のコメントを全て表示する
yunatogirls
yunatogirls
2019年10月26日 0時1分

>天に泣く役目のための役人を五千人も登用した
 これ、儒学からして何か意味ある儀式か何かですか?

>王莽は同年混乱の最中に商人に殺され、新は滅亡しました。
 反乱した武将とか民衆になら分かりますけど、商人とはあまり例がありませんね。経済の失策で恨まれていたとか?

>ちなみに、王莽の首は宝物とされたそうで、250年以上後の晋まで倉庫に眠ってました。
 なんじゃそりゃw てことは、曹操や司馬懿も拝見した可能性があるんですかねw
 当時の保存というと、塩漬けですかね。張松の首もそうなる予定でしたが、しばらくつながりましたね。

>挙兵直後は馬が手に入らずに、牛に乗って戦っていた
 横山版では忙牙長がそんな事をしていましたね。

>寡兵で王莽の大軍に勝つ
 なんか桶狭間よりもすごい事をやっているような…。

>皇帝即位後に夜遊びして城の門限を守らず、部下に城門閉じられて仕方なく野宿する(2回は最低あったらしい)
 野宿?夜遊びの二次会じゃなくて?w

>皇帝即位後も前線で得物を振るい、反乱鎮圧
 孫策孫堅みたいな事を。

>最初の郭皇后がワガママ過ぎたので廃して、
 郭皇后というのはいつの時代もワガママと決まっているんですかね。ちなみに廃するとは退位という事ですか? その先まで行くのも良くある話なんですが…。

>光武帝の元憧れの美女陰麗華が皇后となりました。
 何ですか、元憧れというのは。郭皇后が次の憧れだったのですか?

>ちなみに劉キョウは劉虞の祖先です。ああ、劉曄の祖先が光武帝なのも言い忘れてましたね。
 劉虞に劉曄、どちらも玄徳みたいに大勢力になる可能性もあったんだ。

>ちなみに後漢は即位時に成人してる皇帝がめちゃくちゃ少ない事で有名。光武帝と明帝くらいしかいない。あと、早死率が高い。なんと、50歳越えれたのは光武帝と献帝しかいない事実。そりゃ、外戚や宦官が調子乗りますわ。
 なんでほとんど早死にしたんですかね、健康問題? 体にも気を付けよう。そういや筆者さんの体調はどうですか?

燈蝋之斧
燈蝋之斧
2019年10月26日 22時17分

>>yunatogirlsさん
昆陽の戦いで負けた後なので、泣く役目は単に王莽が変になってただけかと思います。神頼みみたいな?
経済政策失敗してるし、恨まれてはいたでしょう。専売制とかやろうとしてましたし。
王莽の首の件は、なんでそんなの保存してるのって感じですよね。塩漬けの瓶詰めにでもしたんですかねぇ……。
大軍に勝った件は、多分歴史的にもかなりの兵力差勝ちです。関ヶ原の島津よりはマシですが、桶狭間よりはキツイです笑
夜遊びは狩りらしいです。部下がキレて、城門閉じました。皇帝なのに。まあ、前線の件といい皇帝にしてはフランクですけどね、光武帝。
いや、郭皇后については皇后でなくなっただけで、殺されてはないですね。別の称号も与えられたし。穏健な処置です。
陰麗華は地元で評判の美人で、光武帝が若い時から結婚したがってました。郭皇后は政略結婚です。皇帝になる前には陰麗華と結婚してるので、元憧れです。
劉虞については、袁紹から皇帝に推されたりと可能性はありました。劉曄は前に出たりする性格でないので、劉備みたいになる可能性はないかな?
早死には病死もありますが、毒殺、客死と政情不安も多いですね。光武帝直系も確か途絶えましたし。
私は元気です! 普通に生活出来てます! お気遣いありがとうございます!

yunatogirls
yunatogirls
2019年10月29日 0時22分

>昆陽の戦いで負けた後
 中国とか大陸だと死者のために泣く風習があって、泣く職業もあるらしいですね。偉い人ほど泣く人が多くなるとか。
 じゃあ大敗した兵士を弔うためにたくさん雇ったのかもしれません。5千人が妥当とは思いませんが。

>経済政策失敗してるし、恨まれてはいたでしょう。専売制とかやろうとしてましたし。
 やっぱり恨まれていたんだ。金の恨みは恐ろしいですね。

>王莽の首の件は、なんでそんなの保存してるのって感じですよね。
 李儒でしたっけかね、恨みを晴らすべく首をサッカーボールさながらに蹴られたのは。
 董卓でしたっけ、腹に蝋燭を立てられて火が燃えると騒がれたのは。
 民衆が権力者のご遺体にいつまでも復讐しているうちに、とっておいてまた復讐しようという話になった、のかな?

>大軍に勝った件は、多分歴史的にもかなりの兵力差勝ちです。関ヶ原の島津よりはマシですが、桶狭間よりはキツイです笑
 結果論からすると、大軍の統率がとれていなかったためかと思いますが、それにしてもすごいですね。

>夜遊びは狩りらしいです。部下がキレて、城門閉じました。皇帝なのに。
 やっぱ孫策じゃんw 夜遅くなるなら一言言っておけばいいのに。

>いや、郭皇后については皇后でなくなっただけで、殺されてはないですね。別の称号も与えられたし。穏健な処置です。
 良かった。甄氏とか夏侯徽とかもそうなれば良かったのに。
>陰麗華は地元で評判の美人で、光武帝が若い時から結婚したがってました。郭皇后は政略結婚です。皇帝になる前には陰麗華と結婚してるので、元憧れです。
 郭皇后は不細工だったんですかね?w

>劉虞については、袁紹から皇帝に推されたりと可能性はありました。
 大戦3では「野望で汚された王の座に誰が昇りたいと思うものか」と言っていましたねえ。皇帝の血筋だからと言って天下を獲れるわけでもありませんが、それなりの地位を目指せるのはさすがですね。

>早死には病死もありますが、毒殺、客死と政情不安も多いですね。光武帝直系も確か途絶えましたし。
 ……権力にかかわると大出世の可能性もありますが、何進とか劉弁のようにいなくなる可能性も。凡人がかかわるものではありませんねえ。

>私は元気です!
 ご無事で何よりですw

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