こんばんは!燈蝋之斧です!
今回の投稿は、前回投稿からの続きです。
前回は
劉表・袁紹・曹操の後継について、笑い有り涙有りで語りました(大嘘)
泣いたのは劉琦と荊州民だけだし、笑い要素なくない?
今回は、残りの
孫権・劉備の後継について話します。
……という予定でしたが、呉の話が長くなったので蜀は次回です!
ごめんなさい!代わりに、濃い話なのでお許しを!
あ、今回は
鬱要素・鬱展開が多目です。
なるべく明るく書きたいのですが、
二宮の変を明るく語るのはかなり難しいのです。というか、明るい要素ないしね。
対孫権専用ATC張昭はもう死んだ後の話ですし。
なので、
呉民の方は閲覧非推奨。
諸葛恪・孫峻スキーな方以外の呉民は、見ない事をオススメします。
孫峻スキーがいるかは疑問ですが……。
では、注意喚起もしたので本題に。
一連の投稿の
メインディッシュである呉の後継問題、『二宮の変』について、語ります。
④
孫権(後継:×孫和 ×孫覇 ◯孫亮)〜二宮の変〜
最初に二宮の変とは何か? そこから解説致します。
二宮の変:孫権の長男で太子の
孫登死後に起きた、後太子の三男
孫和と四男
孫覇の間の後継問題。241年〜250年という極めて長い期間で起きた。孫和派は政権の
主流派が多く、孫覇派は政権の
非主流派が多いのが特徴。孫呉の後継と絡めた豪族間の勢力争いでもある。最終的に、孫和は
廃太子、孫覇は
自決させられ、後継は当時8歳の
孫亮と定められた。宮というのは、皇子という意味。
出来るだけ端的に書きましたが、多分これだけだと説明が足りないので、追加で説明を。
どうして二宮の変が起きたのかですが、問題が顕在化したのにはいくつかの下地があったからです。わかりやすく箇条書きにしてみますね。
・発端は241年の孫登の早逝。
・これを受け、孫権は242年に孫和立太子、
孫覇は魯王に。
(ただし、当初孫権は両者を同等に扱った)
・闞沢や張昭、顧雍等の孫権のブレーキが全滅済。
・孫和の母の王夫人と孫露班(大虎)が仲悪かった。
・顧雍の代わりに丞相になった陸遜は荊州駐屯。
首都建業におらず、宮中に疎い状態。
・元々呉は豪族の連合政権。派閥争いが激しい。
・当時の孫権は呂壱事件で信用失墜気味。
……既に結構フラグ立ってますなぁ。某ゲームの爆弾マークが付きまくってる状態……的な? なお、争いが激化したのは、大体244年頃です。
ちなみに孫和派と孫覇派は、下記の通りです。
1.孫和派(主流派)
陸遜、陸抗、陸胤、吾粲、諸葛恪、顧譚・顧承(顧雍の孫)、張休(張昭の子)、朱拠(小虎の夫)、朱積……等
2.孫覇派(非主流派)
全琮、孫弘、孫峻、孫露班(全琮の妻)、歩隲、呂岱、呂拠、全奇(全琮の子)、孫奇、楊竺……等
こうして見ると、三国志大戦にまだ出てない人も多い様に見えますね。まあ、大体はマイナー武将か。
ちなみに孫和派は、孫登推しだった人も多いです。諸葛恪とか顧譚兄弟、張休とか。元々、孫和の立太子は孫登の遺言ですので、当然と言えば当然ですが。
流れとしては、勢いを強める孫覇派に対し、孫和派が先手を打って正当防衛をしたのが始まりです。ただ、防衛の仕方が過剰でした。吾粲が城門に孫覇批判の文書だしたり、陸遜が全琮に孫覇派の息子、全奇を殺せと言ったり。(なお、この一件に全琮はブチ切れて孫和派から孫覇派になります。)ロビー活動のやり過ぎで、孫権にも目を付けられます。
こんな状態で、孫覇派はカウンターを撃ちます。全琮が顧譚や張休の不正を孫権に訴えました。これは通り、顧譚と顧承に張休は
孫呉必殺のベトナム送りにされます。
孫呉ではよくある事。
ちなみに、この後彼らは病死したり、殺されたりしました。これが原因で、
顧雍と張昭の一族は途絶えました。
こんなのを見せられて頭に来ねぇ奴はいねぇ!とばかりに切れたのが、陸遜。一族の陸胤を使い、楊竺と孫権の孫和廃太子の会話をスパイします。それで知った機密内容に対し、反論の書状を孫権に送ります。
これに驚いたのが孫権。なんで荊州にいる陸遜が機密情報知ってんねん!って事になります。
まあ、当たり前ですね。
そんで、調査を命じられた楊竺は陸胤がスパイしてたのを突き止めます。陸遜にも確認とりました。
いや、なにバラしてるねん、陸遜!
窮地に陥った陸胤は、楊竺から機密を聞いたと捨て身の道連れ戦法に出ます。一転、楊竺が窮地に。
拷問に耐えかねた楊竺は自分が陸胤に機密を漏らしたと、嘘の自白をします。それで楊竺は腰斬の刑に。陸胤は拷問に耐え抜いて、無事釈放。
いやもう、グダグダですね。
でも、ここまでが前座。ここからが本当の地獄だ(最終警告)
楊竺は死にましたが、彼は置き土産に陸遜に対し罠カードを伏せておりました。その名も、
20ヶ条の疑惑!世界史でよくありそうな感じな名前ですね。
そして孫権、この20ヶ条の疑惑を陸遜にぶつけます。問責の使者を何回か送ってね。
その結果、245年3月
陸遜は憤死します。
……もう、なにやってんのかわからん。丞相が憤死って、ガチ暗黒時代やん。
あ、一連の出来事の黒幕は孫峻や孫魯班です。孫和派に大ダメージを与えました。
さすがの孫権も、これにはビビったのか一旦後継問題の話は保留。ただ、吾粲は同時期刑死してしまいました。あと、孫和の母である王夫人も大虎の讒言で孫権に嫌われ、悶死。
状況は孫覇派有利。このまま押し切るか、と思いきや247年に孫覇派の重鎮
全琮と歩隲が死去。孫覇派も決定打を欠き、後継問題は完全停滞。
結局、解決は250年まで待たないといけませんでした。
最終的な解決方法はこちら↓
・孫和は廃太子とする
・孫覇は自決、全奇も自決させる
・派閥争い関係ない8歳の孫亮を太子とする
ちなみに全奇が殺されたのは、孫亮の妻が全一族だったため。外戚として好き放題されないために、殺しました。
でもまあ、こんな解決法では皆納得しません。乱暴過ぎますからね。孫和派の方々は特に怒りました。その結果、
朱拠が軍勢率いて孫権に抗議し、孫弘の偽詔で自決に追い込まれます。あ、ちなみに彼の妻の
小虎も彼の一族の族滅に巻き込まれ、死にます。
間違っている、間違っているぞ、孫権!
小虎を虐めないで……。
それでまあ、252年に孫権死去。孫亮の母
藩皇后は外戚の脅威を恐れた諸葛恪により殺害。あと、孫弘も諸葛恪と孫峻が殺しました。
暗黒時代過ぎてヤバいですね。
袁紹「うちらのが悲壮感ない分、マシやない?」
劉表「それな!」
でまあ、孫権の思惑も虚しく、孫亮は案の定傀儡化。孫和派ながら上手く立ち回った諸葛恪、孫峻が権勢を誇ります。こやつらが最終的な勝利者ですね。
……とまあ、こんな感じで二宮の変は幕を閉じました。いやあ、書いてて辛かった。二度と書かないわ、こんなエグい事件は。
ゆーて、なんか書くやろうけど。
長々と顛末を述べましたが、これでも結構ダイジェスト気味です。詳しく知りたい方は、ググると良いかと。辛い気持ちになれますよ。
それで、こっからが自分の持論。
まず、一連の事件ですが基本的に
孫権が悪い!
太子と他の子供は区別しとけ!あと、10年もグダグダ後継問題を引っ張るな!というか、
国の元老死なせるんじゃねぇ!
……主に言いたい事は上3つ。でもまあ、孫権が全部悪いというのもなんか違うので、擁護もします。劉備の妻の兄貴だしね!
劉備「大分無理矢理じゃない?」
正直言って、状況や運が悪い所もあります。当時は孫権の気心知れた人が
朱然以外死んでました。古参の奴らほぼいないし。
更に、呉の政治体制が豪族の連立政権だった事、孫権が創業者じゃなかった事、結構配下の質が落ちてたのもダメ。
ぶっちゃけ、魏や蜀に比べて呉は中央集権化出来てないというか、権力構造が歪でした。豪族が私兵持ってましたし。曹操や劉備みたいな一代で勢力気付いた連中の様に、強権発動出来なかった所はあります。
あと、陸遜も大分空気読めてない節はありましたね。正論だけど、やり過ぎ的な。政治センスや謀略スキルはあんまなかったのが、結果的に身を滅ぼしたかな、と。
私は後継は
孫和で良かったかなーと思います。出来は孫覇より良かったし。学者肌だったみたいです。というか、太子に任命した後に孫覇寵愛は謎ムーブ過ぎる。冷静に考えて、おかしいですよ、孫権さん!
つかね、最終的な解決方法が乱暴過ぎるわ!もうここまで拗れたら、最後まで行ったれって感じか。うん、色々とおかしいわ。
というか孫和は廃太子から結構経って、結局孫峻に殺されるしいい事が全くない。希望も夢もない。
ちなみに歴史家の
裴松之は一連の出来事に、劉表・袁紹よりアカンと孫権をこき下ろしてます。
そりゃ、そうじゃー(オーキド博士)
あと、更に絶望的な話として孫和の子の
孫皓がグレた原因がこの二宮の変と言われてます。マジで
滅亡の原因です、二宮の変。
……気付けばかなり長くなっていたので、これくらいで。
間違って全部読んじゃった呉民の方、トラウマ抉って申し訳ございません!
この非礼は、孫呉の面白い話を投稿する事で代わりにとさせて頂きます!
呉は面白い話も多いからね!二宮の変が特殊なだけ!
次回は蜀をやります。
本当は今回一緒にやるつもりだったけど、自分の文章まとめスキルが無くてすみませぬ……。
蜀は辛い話はそんな無いので、ご安心を!
では、長文失礼しました!
晩年ゴリラは絶対認知症というかボケてたと思うな
ボケてたであろう晩年秀吉と似てるやらかしやん😂
トムジェリしてた張昭じぃの偉大さが身に染みますわ
呉の成り立ちからして必然だった気がしなくもない。そもそも孫策の死にも色々と疑惑がありますし。
地方豪族の後ろ盾が無ければ存続し得ない国だったと思いますがその豪族に振り回されて結果衰退したという。
最初から詰んでた国だったのかなぁ…
>>柱の男
まあ、正常な判断やないよね。秀吉はまあ、天下人やし落差でボケるのわかるけど、孫権はアカンて。
放火犯と被害者の関係性なのにな笑
豪族に振り回されるのに嫌気が差してた孫権が、後継者問題を口実に大粛清を実行したっていう考え方も出来ないかな~と思うんですよね。二宮の変後に権力握ったのは地元豪族じゃない諸葛恪に滕胤と、皇族に連なる孫峻ですし。まあこいつらはこいつらでこの後さらに色々やらかすわけですし、そもそも当主クラスを一時的に中央から消したところで豪族の根を絶やすなんて無理なので、どのみち賢い選択でないのは確かだったと思いますけどね…
>>劉禅の夏休みさん
正直、国としての正統性や大義名分が魏や蜀に比べて欠けてましたからね。その上、豪族政権だから国としての連帯感は生まれにくかったのでしょう。
二宮の変がなくても、代わりにどっかで問題起きてそうですからねぇ……。確かに詰んでますね。
>>熊田薫さん
これが三国志で一番激しい後継争いですね。
他は楽しい話も多いので、気になったら正史とか読んでも面白いかと!
ご拝読、ありがとうございます!
>>指鹿為馬はよさん
実際、江東の四姓はほぼ壊滅してるので、そういう読みも出来ると思います。呂壱事件とかも踏まえると、中央集権的な事を孫権が考えてても不思議ではないかも。問題は流した血が多過ぎる事と、後事託した連中が碌なのいなかった事ですね。
以前に孫魯班を調べた事があり、彼女が積極的に物事を動かしていったと思っていたのですが、
彼女の仕掛けの前に土台(孫呉の状況と孫権自身)がかなり腐ってたんですね😅
これ、世界史で見てもTOP10に入りそうな酷い流れですね…。
すみません、前座で卒倒しそうになりました、楊竺…
小虎がかわいそうな死に方をしたことぐらいは知っていたんですけど(武将カードの裏面による知識)
ここまで酷いのはなかなかないと思いますが、後継争いはすんなりいくことの方が稀なんですかね
袁家だって兄弟相争う場面は悲壮だったでしょう!?!?
とはいえ9年がかりで体制がぶっ壊れたこちらに比べりゃ…ですが。
孫皓は大戦2の呉後伝でイベント見てからイメージだいぶ変わりましたね。こんなに国力なくなった後に勝てる気しないよねそりゃ……。
>>Zeroさん
孫露班が暗躍するだけの土壌がありましたからね。多分、彼女が居なくても同じ事起きてたでしょうし……。
こんな長期間グダグダにやらかすのは、あんま無いですからね。逆にこの状態で国保ってるのは凄い気も笑
>>亮+さん
前半でもう酷いですからね……。楊竺も大分アレなんですが、冤罪なので可哀想と思います。
ここまでのはまず無いですが、基本後継争いは有りますね。すんなりいく例は、かなり稀です。日本の毛利家くらい?
>>おかか容疑者さん
これは失礼!ただ、袁家は悲壮感というか諦めの境地に近いかな、と私は思います。孫権みたいな謎ムーブない分、納得出来るというか……。
人材バンバン死んでますからね。皇帝になった時点で、孫皓は詰んでます。自暴自棄で虐殺はダメですが、気持ちはわからないでもないですね。
呉編お疲れ様でした。
私は蜀好き人間ですので、楽しく読ませていただきました。
陸遜憤死って可哀想なイメージでしたが、なんかダーティでしたね。
主流派と反主流派で争えばまあこうなりますね。
連合政権である呉の宿命というのはなるほどでした。
シベリア送りならぬベトナム送りがあるんですねw
三國無双にハマった大学の後輩が「孫呉が三国で一番長く続いたのは家族の絆」みたいなレポートを書いたので一晩説教してやったのが懐かしいな…(俺も大人気なかったな…)
>>guriffon315さん
ありがとうございます!
陸遜の件は、彼も大分空気読めない事してるので全く無実かというと微妙です。でもまあ、死ぬ程の事はしてないんで可哀想ではあります。
君主の統制効いてないですからねぇ……。
あ、ベトナム送りは呉の良くある刑罰ですよ!
虞翻も喰らいました笑
>>うさまるさん
それは止めるべきですね笑
長く続いたのは、陸抗のおかげでしかないと思います。
親族間については、魏蜀の比でない位殺伐としていると思うのよ、呉は……。