「泣いて馬謖を斬る」は、三国時代に生まれた有名な故事成語です。
この「泣いて馬謖を斬る」は、大戦シリーズで登場する馬謖が必ずと言っていいほど持つ計略ですね。
一般的な意味としては、「三国志演義」の中にある街亭の戦いで軍法に背き大敗をした責任をとり、自ら縛った状態で諸葛亮に死刑を申し入れ処刑。
処刑後、馬謖の首を見て諸葛亮が激しく泣く事で、個人的な繋がりよりも軍法の重要性を説いたとされています。
しかし、他の文献によると、この「泣いて馬謖を斬る」には、幾つか異なる点が生じています。
それでは、どの様な異なる点が有るか見てみましょう。
まず「諸葛亮伝」には、諸葛亮が「馬謖を死刑にし、兵士に謝罪した」と書いてあるだけで、「泣いて」いない。
次に「馬良伝」には、「馬謖は投獄されて死に、諸葛亮は彼の為に涙を流した」と、ここでは「泣いて」いる。
これでわかるように、馬謖はすぐに処刑されたのでななく、一旦、投獄されたと見るのが妥当でしょう。
また「向朗伝」には、馬謖と仲の良かった向朗が「馬謖が逃亡した際、事情を知りながら黙認した」と書いている。
この記述は不可解だが、向朗は、この黙認をした罪で罷免されている。
という事は、馬謖は投獄後、逃亡を図った事による罪で諸葛亮から死刑を断行されたのが、妥当とまで行かないが有力と言えるのではないでしょうか。
そうすると、諸葛亮は、馬謖が無残にも逃亡したのを受けて「泣いた」のでしょうか。
話が少しそれますが、馬謖とマッチアップした張郃について書きます。
この頃の張郃は、相対的に見て魏軍に於ける大将格の将軍でした。
戦死した第四次北伐では、司馬懿に「追撃すると罠に掛かる」と忠告したのに、司馬懿の追撃命令に逆らえず罠に掛かり戦死される程、戦況分析に定評のある名将だったのです。
これだけの強さを誇る張郃に対して、蜀では魏延や呉懿をマッチアップさせるべきの意見が多かったにもかかわらず、諸葛亮が私情を入れての馬謖を指名した事に対して「泣いた」のか・・・
この様に、さまざまなニュアンスが考えられる事で「泣いて馬謖を斬る」は、広く後世に伝えられる事に繋がったと言えるでしょう。
そして、街亭の戦い後、魏は漢中からの蜀の動向を警戒し、郝昭らを陳倉を守らせるなど、北伐はより一層困難を極めるのでした。
以上、ここまでとします。
次回は、これまた、大戦シリーズの計略として採用された劉禅の「魏はいいところ」について投稿します。
補足となります。
張郃は、街亭の戦いの前、荊州で呉の劉阿と合戦してました。
張郃は、この合戦後、街亭に向かっているのですが、もし孫権が劉阿に援軍を出して張郃を留めさせたとしたら、馬謖は処刑されずにすんだでしょうね。
これは、夷陵の戦い後、再度締結された孫劉同盟の呉の「本気度」がみられると思います。
また、諸葛亮が馬謖を指名したのは、多くの歴史家が論評する通り、マイナスの評価材料でしょう。