どーも、どらぼしです。
いつもはプレイ日記や三国志大戦の話ばかりしているので、ここいらでちょっとした歴史の話をば。
三国志はこの国が無ければ恐らく成立しなかった、後漢王朝のお話でもしようかと思いまする。
と言っても歴代皇帝のお話ですけどね。
初代 光武帝劉秀
後漢の初代皇帝にしてチート。
どの位チートかと言うと、
・彼が新への反乱軍に参加するだけで兵が集まりに集まりまくる
・100万の大軍を僅か3000の兵で撃滅。ついでに10万の兵の包囲をたった13騎で突破する
・当時の戦争における戦法を根底からぶっ壊しまくる。挙句それで勝つ
・しかも戦争では劉秀本人も敵陣に斬りこんでいる
うん、おかしい。
ついでに言うとリアルイケメン。嫁の陰麗華も美女な上に凄く優秀。
ぶっちゃけ彼については自力で調べた方が早いレベル。
ちなみに彼の配下には馬超のご先祖様である馬援がいたりする。
2代 明帝
チートと美女の間に生まれた優秀な息子。即位時30歳。
基本的には父親の政策を引き継いでいるのだが、彼は外交に積極的な姿勢を示している。
ちなみに嫁さん(馬援の娘)がこれまた優秀であり、この時代ではよくある外戚の増長は一切なかったと言う。
しかし働き盛りの48歳で死んでしまう。
3代 章帝
明帝の息子。即位時19歳。
母親は先述の嫁さんではないのだがその従兄弟。勿論彼も優秀。
父親の代までは法治政治だったのだが、儒学大好きな彼が目指したのは徳治政治。
五経の議論に自分まで参加してしまう位の熱の入りよう。
がしかし、肝心の嫁さんが前二人とは比べ物にならんレベルでクズ。
32歳の若さで病死。後漢王朝の安定期は早くも終了。
4代 和帝
章帝の息子。即位時10歳。
母親はそのクズい嫁さんに嫉妬されて実質殺されていると言う割とヤバい経歴の持ち主。
一応そんな彼女が養母だった為、最初は完全に実権を握られていたのだがいつしかこれに反感。
一応誅滅に成功するも、この時の相談役で選んだのがあろう事か宦官。
相談役として選んだ宦官である鄭衆自体は物凄ーく優秀なのだが、その他諸々はお察しください。
おまけにチ○コの無い宦官に養子を許す始末。と言ってもまだこの時点では特例レベル。
紙が生まれたのもこの時期。
5代 殤帝
和帝の息子。
…と言って済めばいいのだが、実は彼が即位したのは何と生後100日。
こんな状態になってしまったのは和帝の息子が悉く夭折した上に長男・劉勝が病気を理由に即位を見送られたから。
※和帝の息子は実は外戚による暗殺疑惑もあったりする
そういう彼も即位後半年で死去。政治?赤ん坊に政治なんかできるわけねーだろ!
6代 安帝
章帝の孫。即位時13歳。
彼の時代は異民族の反乱起き放題、異常気象起き放題。まさにカオス。
外戚一族が物凄く優秀で慎ましかったのだが、宦官と真っ向から対立してしまった時点でお察しください。
7代 少帝(劉懿)
安帝のいとこ。
即位後200日後に死ぬ。以上。皇帝なのに生年不明。
8代 順帝
安帝の息子。ある意味、三国志と言う歴史のスタートに立つ人物。即位時10歳。
簡単に言えば宦官に養子を持たせ、その上財産を引き継がせる事を許容してしまったと言うもの。
和帝の時はまだ特例だったのだがこちらは本格的に認めてしまったのだからさあ大変。
その上嫁の父親である梁商と言う人物は大変優秀だったのだが、彼の息子である梁冀が大問題児。
そんな問題児が大将軍になってしまい、本格的に後漢王朝は崩壊への道を辿ることになる…。
ちなみに前者が無ければ曹騰が曹嵩を養子に取る事が無かった=乱世の奸雄・曹操の登場は無かった。
9代 沖帝
順帝の息子。
即位時何と僅か2歳。しかし翌年に死ぬ。毒殺説あり。
言うまでもなく梁冀のやりたい放題。
10代 質帝
章帝の玄孫。よく連れてこれたな…。
即位時7歳。翌年梁冀を「跋扈将軍」と揶揄したせいで毒殺される。
誰かーあの将軍なんとかしてー。
11代 桓帝
章帝の曾孫。だからよく連れてこれたな…。即位時14歳。
しかしさすがに3代も権勢を許す程皇帝も馬鹿じゃない。ようやく梁冀はこの時期に粛清されました。
が、この時宦官にまで恩賞を与えてしまった為に今度は宦官が本格的にのさばる事態に。
宦官による大弾圧「党錮の禁」もこの時期である。最早狂ってるよこの国。
12代 霊帝
ここからは三国志大戦でもおなじみですね。章帝の玄孫。またか。即位時12歳。
商人の振りして官位を売りまくると言う常軌を逸した行動を取った事でも有名。
ただ、これ自体は皇帝直属の常備軍を作る為の前置きだった説が有力だったりする。なので割と無能じゃなかったり。
ちなみにそれが西園八校尉。曹操や袁紹・淳于瓊が所属していた軍である。
がしかし生きてる間に完全な完成には至らず、結局完成させたのは曹操。もう奸雄ヤバいな。
13代 少帝(劉弁)
大戦では少年だけど、実は即位時の年齢は17歳。
母親は言うまでもなく嫉妬の塊何皇后。
まあすぐに董卓に廃される上に殺されるんですが。李儒め。
14代 献帝
劉協陛下。実は即位時僅か8歳だったりする。
母親はおっぱい王美人(王栄)。
17歳の青年がビビりまくってるのに8歳の少年が利発で董卓に面と向かって抗議するってどういう事なん…。
言うまでもなくこの辺は三国志真っただ中である。嫁がコロコロ変わる多難な人生送っておられる。
なお、そんな献帝陛下は孔明と同じ年に生まれ、同じ年に死んでいる。
ちなみに曹節はドSに向かって玉璽オラァしてるのだが、一部の演義では逆にそのドSの味方だったり。
まあ、魏が悪役にされる演義ならではである。
こう考えると、三国時代はなるべくしてなったと言うべきなのかもしれませんね。
そして、そろそろメンバー的にきつい漢軍(というか漢鳴持ち)はどうなるのかな?
たまにはこーゆー歴史的な話をして、お茶を濁すのもいいかもしんない。
ただ、こういう話を記事にしてる人もいるようなので、題目はなるべく被らんよう努力せんと。
劉秀のチートぶりがハンパないww
いくら話を盛って神格化しようというアレがあってもちょっとアレですね!!
たまには、三国志そのものや歴史に思いを馳せるのも楽しいですね!!
光武帝とかいうチート、欠陥一切なしの中華最強英霊……
末裔を持ち上げたり、戦略を真似たりとリスペクトしたはいいが、その器ではなかった袁紹……
だがそんな殿が好きだ!^^
歴史の勉強になります。光武帝凄まじい。そして、献帝までにそれほど時間が流れていないような...。国は腐敗すると滅びるのが早いですね。
>>ぱんださん
まああんまり歴史がーなんだらーとか言ってしまったら、大戦の方の面白みがなくなってしまうんで、
この辺は程々ですよ。
でもそんなところから歴史に興味を持つのはありでしょうね。
>>柱の男さん
まあ、如何に時代に適応するかですからね。袁紹は時期が悪かった。
しかしそんな袁紹のご先祖様も実力で国のトップに上り詰めた何気に凄い人だったり。
>>斧男さん
そうなんですよ。実は後漢誕生から黄巾の乱までは約160年しかなかったりします。
後漢の腐敗ぶりからどうして三国志の時代に繋がってしまったのか…と考えるとなかなか面白いところがありますよ。