前回までは、関羽亡き後に現れた
主役・関索、ドラマで言う
エキストラからの昇格組・貂蝉と周倉を紹介しました。
最終回は、意外な人物を紹介します。
【楊松】
張魯の側近で「
とにかく金に汚い男」と設定。
相手方から賄賂を贈られると、主君・張魯に讒言(ざんげん)を繰り返す悪人振りを発揮し、最期は賄賂を受けた曹操によって処刑される。
この楊松を更に語る上で、劉備に下った馬超の生涯を一部を紹介しなければならない。
211年、曹操配下の鍾繇(しょうよう)が張魯討伐の軍を起こす。
馬超は(自身の本拠地)関中を攻めて来るのではないかと思い、韓遂らと挙兵する(潼関の戦い)。
翌年も羌族と共闘して反乱した事により、朝廷にいた父・馬騰並びに弟の馬休と馬鉄が処刑され、後漢からの名族・馬氏は衰退の一途をたどる。
(つまり、
馬騰の処刑の仇を取る為に馬超が挙兵した三国志演義とは真逆)
214年、身を寄せた張魯から劉備に鞍替えする。
このような反旗を翻す行為を繰り返した馬超に対して、『蜀書』の最後に蜀の家臣を讃えた「季漢輔臣賛」(きかんほしんさん)では
朝廷を尊んだが、
向背(こうはい)常ならず、(中略)道理に背き徳義に反した
と非難した部分が有る。
これは三国志演義の作者・羅漢中からみれば、
義を重んじる三国志演義を執筆する上で馬超は最も難しい人物とされ、大きな障害となったと言える。
きっと羅漢中からすれば、「
なんで馬超が蜀に来たんだよ」と嘆いたのではなかろうか。
そこで羅漢中は、馬超が劉備に下った正当性を示そうと、
劉備と馬超の橋渡し役・楊松が登場する。
先述の通り、曹操への反乱の順序をすり替えて、金に汚い楊松には劉備から賄賂を受けると、「
馬超は蜀の地を我が物にするつもりだ」と張魯に讒言する事により、馬超と張魯との仲を引き裂く。
そして、孤立無援となった馬超に李恢の説得により、やむなく馬超は劉備に下るという話となったのである。
このように、多くの書き手は歴史小説を執筆する際、各々の作品の特性を生かした独自の視点・ストーリーを描こうとする。
その際、読者となる私達は
「
史実と逸れているから面白くない」と捉えるのでななく、「
なぜそのように描いたのか」
と考え、その真相が分かるようになれば、歴史を更に楽しめる題材となり得るだろう。
以上となります。
明日は動画を2本投稿します。