今回は関羽の側近中の側近を紹介します。
【周倉】
三国志演義では、出身は涼州で元黄巾(こうきん)賊という設定。
相棒の裴元紹ともに山賊としている頃、関羽に額を地面に打ち付けながら仕官を懇願し、関羽から許される。
その時、裴元紹からの紹介で「
両腕に1千斤の怪力を誇り、鉄板のような厚い胸板」と読者に相当な豪傑という印象を与えている。
しかし、それでも趙雲と出くわした際は散々に打ち負かされる演出は、
五虎将となった関羽や趙雲は別格という印象を与えている。
周倉が活躍した場面として、主に2つ用意されている。
先ず1つ目は、関羽と魯粛が荊州の割譲について会談した「単刀会」。
関羽の従者として参加した周倉は
「天下の土地は徳の有る者が占めるべきもの。呉が独り占めする正当な理由など無い」
と吐き捨てる。
この罵声は、
関羽側が予め仕込んでいたサインプレーの開始を意味するのだった。
このサインプレーが功を奏し、一足先に退出した周倉だけでなく、関羽も青龍偃月刀を持ちながら魯粛を人質に取り退出。
こうして、関羽と周倉は呉軍の罠から無事生還に成功を収める。
もう1つは、219年の樊城の戦い。
関羽による水攻めからの脱出を図る龐徳の小船に対して、周倉は筏(いかだ)で近づいて転覆させると、得意の水練(水泳)で龐徳を捕獲するという大手柄をあげる。
画質が悪いですけど、三国志大戦1でも周倉を描く際には、筏に乗船した場面を描いてますね。
そして、関羽が呂蒙等によって処刑されると、周倉も後を追い自害。
後世の人達は周倉の功績を称え、
架空の人物ながら、関羽が祀る関帝廟には関羽の右側に配置されている。
また、周倉が自害したとされる湖北省当陽(とうよう)県麦城(ばくじょう)村には、立派な周倉の墓まで存在する。
その墓は、周囲を堀で囲み、門前には施錠が掛けられる厚遇となっている。
(提供:上永哲矢氏)
最後に、三国志大戦4からは強固な絆を結んだ義兄弟、婚姻関係を結んだカップルで追加効果を得られる計略が登場した。
しかし、残念ながら、強固な絆を結んだ関羽と周倉の組み合わせによる計略は登場しなかった。
もし、三国志大戦7が稼働して先ほどの計略が再登場するなら、ぜひ実現して欲しいものですね。
以上となります。
最後登場する人物は、おそらく誰も想像しない意外な人物が登場します。