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三国志の人物のお話 第四回

by
モナー平田
モナー平田
こんばんは。モナー平田です。
第四回になります。
魏のカードからの抜粋ばかりでは面白くないかもと思いまして、今回は他所のところからチョイスしてみようかと思います。

みんな大好き、あの武将。

そう、関羽ですね。

姓は関、名は羽、字は雲長。
生まれは司隷河東郡(今の山西省)で、文人(要は市役所職員や県庁職員)の家系に生まれました。

世間が霊帝と宦官による中央搾取で荒れに荒れていたところ、避難目的で幽州琢群に越してきた。
そこで先ずは荒くれ者のの肉屋だが小気味イイ青年の張飛と出会う。
このころの関羽は詳しい事は記載されてはいないのだが、恐らく役所の職員兼私塾の先生をやっていたのではなかろうか。
その際に出会った張飛を用心棒として度々役人に貸していた辺り、世間の危険さを承知の上で張飛の腕っぷしを見込み、当時の肉屋はそんなに儲けが無いので
小遣い稼ぎをさせていた良い兄貴分だったのだろう。

ここからは三国志演技の方の話を大きく拾っておこう。
黄巾党討伐の義勇軍を募る際の前後に恐らく役所の仕事を退職し私塾の先生一本で生計を立てていたところ、張飛から義勇兵を募る話と
【兄貴、俺は仕えるべき人間を見つけた!】
と言う話を聞く。
張飛が酒に酔ってもいないのに饒舌に語るのを聞いている内にその人物に興味を持った関羽は翌日、張飛に連れられその人物に会ってみる事に。
すると、一見すると姿はみすぼらしいがその内に秘めたる輝きみたいなものを感じ取った関羽は即座にその人物の前に膝を折って首を垂れた。
この人物こそ、生涯の主の劉備である。
なんやかんやあって、劉備の母と劉備と親しい者たちの手で桃園に酒宴の席を設けられ三人は
【我等三人、生まれた日は違えども死す時は同じ日同じ時を刻まん。】
と、義兄弟の契りを結び、長兄を劉備、次兄を関羽、末弟を張飛とする三兄弟となった。

※年齢的に実は関羽の方が上とする説もあった気がするが、その辺は記憶違いの可能性もあるので注釈程度にしておく

関羽がどのような性格であったかというと劉備以外には首も下げず不遜な態度をとる事もしばしばあったというが、基本的には礼節正しく穏やかな性格であったとされる。
劉備の三顧の礼において張飛が「押し入って刃物突き付けて引きずり出してやろうぜ!」というのに同意する辺り本当に穏やかだったのか?と疑問に思うが、3回もそれでいて3回目に至っては風の強い中、山の中の一軒家まで足を運ばされたらそういう事にもなろう。
この際に「先生に失礼があってはいけない。君達はそこで待っていてくれ。」と言って穏やかに諫めた劉備も大概ではあるが、よくもまあ短気な張飛を押さえながら数時間も待っていたもんだと思うと、やっぱり穏やかな方だったのではなかろうか。

ここで一つ視点を変えてみよう。

そんな関羽ではあるが、もう一人忠節を尽くした者がいる。
曹操である。

その曹操、反董卓連合軍において右も左もぐちゃぐちゃな戦場において意気揚々と敵の一陣を崩す人物がいると聞いて興味を持つ。
その後、膠着状態どころか連合軍はとある武将が率いる一軍に窮地に陥る。
袁紹が苛立ちを覚え誰かあやつを討てと命じても既に二人ほど目の前でぶった切られてるどころか二軍も抜かれている。
そんな状況下で手を挙げるヤツなんて

「誰もおれへんのやったらワシがやりまひょか?」

赤ら顔でデカい体で立派な髭を蓄えているが身の回りは低品質のそれも中古品で固めた者が割と不遜に手を挙げた。
袁紹は名を聞く。が、そんな名前なんか知らんしオメェらなんて兵卒上がりやろがい!と一蹴するも曹操は一計を案じる。

【この者は光るものがある。が、あくまでも義勇兵の一人。そんな奴が将の首を万が一落とす事があれば御の字。ダメならそれはそれで一つ策を仕込むか。】

と考え、袁紹を諫めた上で
「やあやあ、よく立候補してくれた。誰か私自慢の美味しいお酒を温かくして出してくれ。」
と言い一献勧めたが
「いや、ありがたい話やけど酒入れたら狙いが甘くなるやろ?せやから戻ってきたら貰いますわ。」
とやんわり断った。
そして、馬を一頭借りて戦場に繰り出す。
金属の器の温かい酒って結構冷えるの早いんですけど、その赤ら顔の男は酒が冷める前に
「お求めの首はコイツでっしゃろ?」
と、そうそうたる者達の前に投げて寄越す。そして、
「ほな、お酒頂きますわ。」
と唖然とする者達を尻目に酒を飲みほした。

曹操は惚れた。元から人材コレクターで非才の者は手当たり次第に欲しがる曹操(と荀彧)なもんだから、そんなん惚れてまうやろー!である。
その場でスカウトをするも、
「あぁ、ありがたいんやけどワシ、もう仕える主決まってますねん。」
と即辞退される。

これが曹操と関羽の馴れ初め。

まあ、演技を知ってる人はこの後、色々あったのを知っているでしょうし割愛。
何故、関羽が曹操に対し忠節を尽くしたかと言うと、寿春周辺の戦いで三兄弟が散り散りになった際に一時的に曹操の軍門に降ったのだがその際に恩義が三つある。

・劉備の嫁二人を無傷でかくまったどころか手も付けず厚遇してくれた
・劉備の居場所がわかるまでは居るという我儘を受け入れてくれた
・劉備以外の人間は主ではないと頑なに言い張る自分に友人のように接してくれた

この三つの恩義から曹操に対しては不遜な態度を取らなかったと言います。
もしも、この時に袁紹のところに身を寄せている劉備が袁紹によって首をはねられていたのであったなら、関羽は悩みながらも曹操に帰順していたのではなかろうか。
そのぐらい、曹操には礼節を以て接するようになってます。

ここからはちょっと自分の推論になるのですが、劉備と関羽の間にちょっとした亀裂がここで生まれたように思います。
今まで劉備は関羽に絶対の信頼を寄せていました。それも曹操の世話になってた時にあんだけ不遜な態度を取ってた関羽が次に会った時は曹操ってそんな悪い奴じゃなかったよみたいな空気を出されちゃ疑いますわな。
関羽とは長い付き合いだからまあ裏切るじゃないけど自分のところから離れはしないだろうけど、曹操どんところでほだされて何かの情でこっちから離れるんじゃないかって少し思っちゃったんだろうな、と。
信じてるけど信頼は出来ないな、みたいな。

まあ、劉備軍の中でちょっと浮いちゃった存在になった関羽。それでも、劉備も張飛も信じてくれてます。
次に劉備と関羽の間に溝が出来たと思うのは軍師として諸葛亮を迎え入れた前後になると思います。

三顧の礼の時もそうだったろうし、迎え入れた際に自分よりも諸葛亮を信頼して昼も夜もべったりされちゃムッとします。しちゃったわけです。
(※「水魚の交わり」で検索してみよう!)
才能はあるのを認めますが「お前は主にふさわしくない」みたいな事を言い始めます。
まあ、その辺はキチンと才で以て力を示した諸葛亮。関羽もその実力を認めます。認めますが、関羽は諸葛亮に対してはデカい態度を取り続けます。
劉備が「えー…。関さん、そりゃないっすよ…。」と思ったんじゃないかな、とまあ、個人的には思います。
この二点から重鎮扱いをしつつも劉備と関羽の間はちょっと溝が出来たんじゃないかと思っております。

そんな関羽ですが荊州を得、益州も手中に収めた劉備の下から去る日が来ます。

曹仁が守るハン城への攻撃を主の許可を待たずに行ってしまいます。
呉軍の備えが手薄(陸遜&呂蒙の作戦です)になった今こそ、後ろをつかれる心配はないという判断だったのですが、軍師の馬良は諫めます。
「呉軍が手薄になる筈がない。そして、大殿や諸葛亮に裁定を仰ぎましょう。」
と。
だが、ここにきて彼の本来の性分が悪さをします。関羽は馬良を下に見ているせいでその言をぴくちりとも聞く気がありません。
「長年戦場に出とった勘が言うんや。チャンスやでって。あんま戦場出取らんモンが我が口開くなや!ほないくでー!」
と、言って戦備えをして出陣してしまいます。この時の馬良の判断と行動力マジで凄いんですけど、ここでは割愛します。
後方の守りに孟達・劉封・麋ホウ・シジンとしっかり備えもしました。が…

孟達も、麋ホウも、シジンも、関羽を良く思っていませんでした。
不遜な態度どころかコケに扱われる事もしばしばあったり、この出陣の件でも孟達は諫めました。馬良と一緒に。が、
「やかましいわ、ボケェ!誰もおんどりゃに意見聞いとりゃせんわ!」
と一蹴。これが完全に火をつけました。

孟達は城門を固く閉ざして守る様に仰せつかりました。そう、城門を、固く閉ざして、守る。んです。

最初は順調だった関羽率いる野戦部隊の進軍も、二つの知らせで一転します。

【呉軍による後方からの攻撃が開始された】
【呉軍により江陵城と公安砦の陥落した】

唖然としました。それもほぼほぼ無血開城だったとの報。
関羽は怒り狂いました。
「呉軍やない!麋ホウとシジンの首、ワシ自らの手で吹っ飛ばしたる!!!」
そう勢い付け、既に包囲されているであろう上庸の方へ本隊を向けます。
先ほども言いました通り、孟達は「城門を固く閉ざして守って」いました。

魏の旗を掲げて。

※この時一緒に城にいたはずの劉封は追い出されています。ほうほうの体で義父のいるところを目指しております。

関羽は沸点を突破します。
「麋ホウとシジンは後回しや!あの孟達のクソハゲェ!アイツのそっ首叩き落したる!!!」
と攻城戦を指示します。
が、馬良と関平に諫められ拠点を転々と意気消沈しながら撤退し、最早城と呼ぶにはみすぼらしい麦城へ辿り着きます。
当然、麦城はあっという間に呉軍により包囲されます。
数回の小競り合い並びに籠城戦が行われましたが…これもまた、関羽率いる部隊の兵卒から帰順者が出て開城となりました。

捕えられた関羽に対し孫権は何度かこちらへの帰順を解きました。
関羽は首を縦に振りません。
では、曹操の時のように客将としてウチに来ないかと勧めますが…
なんと、ここで呂蒙と陸遜がNOを出します。
呂蒙「我が主君をコケにした関羽にそこまでの温情を示す理由が無いっすよ!?これまで散々バカにされた俺達の腹の虫が収まらねぇっすよ!!」
陸遜「このまま関羽を生かしておいては劉備に対しての恩義には繋がりましょうが、呉が今後飛躍する障害になります。」

「「今ここで首を斬りましょう!!!!」」

関羽も既に腹が決まっていたようで神妙に処断を受け入れます。
「惜しむらくは兄者と生死を共にしたかった。兄者、張飛。さらばである。」
ここに関羽の生涯は幕を閉じます。

死してからの関羽は呉に呪いをまき散らし(と言われています。詳しくは三国志演義/ハンショウ/呂蒙/死因で検索。)たものの、曹操により厚く弔われました。
また後世の代になり

忠恵公→武安王→崇寧真君→義勇武安王

と呼ばれ…更に神格化され

協天護国忠義関聖大帝 → 三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君 → 忠義神武関聖大帝 → 忠義神武霊佑仁勇威顕開聖大帝

と、奉じられた。

長い。ホンマ長いっちゅうねん。どこまで長くすりゃえぇねん。

他に関羽は算盤の発案者とされています。
事の仔細はさっぱり解らないし出所もはっきりしないんですが、恐らく商売の神様として祀られだした際に特に出所がさっぱりわからなかった算盤を神君関聖帝に繋げて
【商売の神様だから算盤を考案して使ってたんだよ!】
としたんじゃあなかろうかと思います。個人的な見方ですけど。

あと何故関羽が商売の神様として祀られだしたのかと言うと…関羽は忠義に厚く言った約束は必ず守ったと言われています。
そこから契約を破らない人として伝わりだし、神様として奉られだした際に契約を守るのは商人の鑑として
神格化の序でに商売の契約の神様として繋げられて民間に広がりだしていったんだと思います。

関羽は割とエピソードの多い人物で先述の于禁よりももっとずっと書き足りないのですが、この辺で筆を置こうかと思います。
抜粋する部分も間違ったかなと思いながらでは御座いますが。

何かエピソードを読んでみたいと思う人物があればコメント頂けると知っている部分や軽く調べた上でざっくばらんに書き綴ってみたいと思います。
作成日時:2022/02/06 20:59
コメント( 1 )
みいけん
みいけん
2022年2月7日 0時20分

よく、まとめられましたね♪
とても、読みやすかったです!

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