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三国志の人物のお話 第三回

by
モナー平田
モナー平田
こんばんは。
所々、色んなものの記憶に自信がないモナー平田です。

今回は三国志の人物についてお話しするヤツの第三回。
文官、女性ときたら…
そう、武官だね。武官。そんな訳で今回取り上げるのは、
チキン于禁と何故か言われ続けてそんな扱いばかり受けている于禁です。

姓は于、名は禁、字は文則。生まれはエン州泰山(今の山東省)の生まれ。

同郷の出身であり曹操の幼馴染の鮑信が義兵を募った際に馳せ参じたとされる。
鮑信の下で反董卓連合軍並びに青洲黄巾族討伐で頭角を現し始めたころ、鮑信が青洲黄巾族の残党により奇襲を受け帰らぬ人となった。
行き場を失った所、曹操から手を差し伸べられてそのまま配下となる。
配下となった際は先ずは王朗(カード化されている王朗とは別人)の下につけると瞬く間にその才を発揮。
王朗曰く
「彼の者は一兵卒にしておくに非ず。将たりえるものがある。」
とベタ誉め。
その話を聞いて曹操は于禁と面談し、曹操も王朗の弁が正しいものと思い軍司馬(今でいう所の巡査部長レベルかと)に任命。一軍を任せたそうだ。

すると、その頭角は一瞬にして開花。
徐州征伐戦に置いて統率の取れた精強な部隊を率いて徐州の各所を一気に占領するに至った。
又、その後に待ち構えてた呂布軍との戦いでもその才をいかんなく発揮する。
呂布が率いてた野戦部隊四軍の内、別動隊二軍を抜いてそれを指揮していた将を破り呂布軍の喉元にリーチをかける活躍を見せた。
その直後の戦いにおいても呂布に鞍替えした鮑信のお友達の張超が立て籠もる城に攻め入る際に戦功一番を掲げるなどまさに勢い止まらぬ活躍であった。
他にも、豫洲黄巾族討伐戦や袁術討伐、エン城制圧戦(エン城炎上のアレ)に従軍し活躍し将軍位を賜るにまで至る。

※雑に説明すると夏侯惇/夏侯淵/曹仁らと同じ立ち位置に到達しました

エン城制圧戦に置いて一つ于禁の何たるかを語る上で欠かせないエピソードがある。
曹操が鼻の下を伸ばしに伸ばしまくってチ〇コで失った、前回も少し触れた息子の曹昂と直近の護衛の典韋の悲しみに暮れながらの撤退の最中、
于禁が率いる殿の青洲兵(青洲黄巾族が統制の取れた部隊として編入された部隊)の一部が曹操がひもじい思いをしているであろうから、と近隣の村から略奪まがいの徴収を行った。(これについては純粋な略奪とする場合もある)
それを知った于禁はその行動を起こした者を
「軍の規則には【一切の略奪は行ってはならぬ】となっている故、如何な理由があろうと軍規を破った者は処断せねばなりませぬ。」
とこのように咎め躊躇なく処断しようとした。
その言葉を聞いた青洲兵は逃げ出した。が、于禁は慌てず急がず捜索隊を出し、一人たりとも逃さず見つけ出し皆の前でキチンと処断した。
処断した上で塹壕を掘り追撃部隊に対する備えを施し、曹操が逃げ切るまでの時間稼ぎを行った。
が、于禁の部隊から「流石に無断で処断はマズくね?」という意見が出て来て曹操の耳にこれが入る事となる。
曹操は事の仔細を于禁に問うたところ
「軍の規則には~(以下略)」
と答えた。それに対し曹操は
「于禁の部隊は規則正しく精強である。今回の件も青洲兵のやらかしを于禁は迅速に対応したにすぎん。また、それをやって尚、追撃部隊への備えまで行った。誉めるところは多かれど責めるところは何もない。」
と無罪放免にするどころか大いに褒めちぎった。

この戦いの後、于禁は本格的に一軍を任されるようになり、次なる戦場は官渡。ここでも楽進らと共に5000の兵を指揮し前哨戦である白馬港攻防戦などにおいて袁紹軍別動隊の陣を幾つも打ち破り戦果を挙げる。また、官渡の戦いにおいて危急に陥った曹操の部隊の殿に立ち奮戦。意気消沈しかけた士気を盛り返した。

まさに古今無双の大働きが続いた于禁だが、民衆や兵卒らからは人気が無かった。
と言うのも于禁が法律準拠で何事も法律絶対主義だった為に融通が利かない所が多かったのだ。
要は「法律を破るものは例外なく処罰する」
この性格のせいで部隊は統率は取れていたが不満は後を絶たなかったそうだ。

そんな于禁にも陰りが訪れる。

荊州を守護する関羽を討伐する際に、曹仁の援軍として副将にホウ徳を従えた于禁が向かう事になる。陸路を進む于禁の部隊は川のそばをさしかかる。
その時、関羽による一計の水攻めが行われ大軍があれよという間に水に押し流されてしまったのだ。
そして、生存した3万の兵と共に関羽に降伏したのだ。だが、副将のホウ徳は頑として降伏には応じず処断された。
この時、命惜しさに命乞いをしたという説もあれば、生存した3万の部下の命を天秤にかけられ降伏するに至ったともいわれ、真相は闇の中。

関羽討伐及び荊州制圧戦のおいて于禁の評価は一気に失墜したのだった。

曹操は「ポッと出のホウ徳は忠義貫いたのに30年以上も俺に尽くしてくれた于禁が降伏とかマジ萎えるんですけど~」と嘆息交じりに嘆いたが、司馬懿と蒋済は曹操に「于禁は部隊を守るために降伏しただけでそれが間違いだとは思いませぬ」と説いたと言われております。

だが、そんな関羽にも最期が訪れます。
呉軍の陸遜/呂蒙の連合軍に包囲され処断されます。
その際に于禁とその部下たちも呉の捕虜となります。
が、孫権は捕虜になった部隊を解放し、于禁も客将として迎え入れます。
そんな于禁を「不忠者として見せしめに処断しよう」と虞翻が進言しますが、孫権は取り合いません。
それが面白くない陰湿ネクラーな虞翻は于禁が呉にいる間、暇を見つけてはネチネチクドクドと降伏したことを責めに責め立てます。
だが、当の于禁はそんな虞翻を大いに評価して義に足る人物だと言ったといわれています。

…だ、大丈夫か?于禁…。

そんな于禁も再び郷里に帰る機会が訪れます。曹操が亡くなり曹丕の代となり、曹丕が王から帝へとなる際に数々の土産物と共に于禁も魏の国へ返されることになりました。
于禁は喜び、曹丕もまた
「よく戻ってきた。君の事はパパから聞いてるよ。とても大変だったね。ゆっくり休むとイイ。あ、パパのお墓参りも特別に許可するよ。」
と歓迎した。
が、それは表向きな事。虞翻以上に性格がひん曲がった曹丕は父・曹操の墓に至る庵の壁面に
【ホウ徳は忠義を貫き于禁は泣いて命乞いをする】
絵を描かせてその庵を通らせたのだ。
于禁はこれに絶望し、面目無さを痛感し、この墓参りの後、病床にふけりそのまま容体が戻る事もなく息を引き取った。
曹丕はそれを手を叩いて喜んだとか。再び魏の地を踏んだ際の于禁は肉も顔もやせ細り髪も髭も白くボサボサ、顔も青白かったという。
面目躍如の機会もなく、ただ晩年を穢したというにはあんまりな最期ではなかろうか。

彼に対して一つだけ言える事があるなら、于禁の言を良しとせずに独断で部隊を動かしたホウ徳のそのフォローに動いた事が全てのケチの付きどころだったのだろうか。それとも、キチンと降伏した際の理由を記載されていなかった事が全てのケチの付きどころだったのだろうか。

非業の最期を遂げた武将は数多かれどここまで悲惨な最期はそうそうあったもんじゃあない。

もしも救われることがあるとしたら、死後の世界で曹操から「文則、ゴメンな。お前の気持ちも知らんとあんなこと言って。」と謝罪されたかもしれないという所であろうか。

于禁についてはまあ、もうちょっと事細かく書き綴りたかったのですが、あまり長くクドクドと書いてもしょうがないなとかなり言いたい事を端折りました。
気になる人がいたなら調べてみるのも一興かと思います。

では、今回はこの辺で。
更新日時:2022/02/04 06:14
(作成日時:2022/02/03 19:46)
コメント( 1 )
みいけん
みいけん
2022年2月3日 22時33分

于禁は、蒼天航路だけでは、良い感じに描かれてますが、それ以外では、だいたいチキンキャラ扱いですからね・・・
魏の五大将軍までなった人物にしては、可哀想ですね。

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