来月の戦友イベントで開催する題材の
合肥の戦い(第二次)が大変に読み応えの有る合戦だったので、今回はこの合戦を詳しく紹介します。
合肥の戦い(第二次)
215年8月、孫権軍は曹操が漢中攻略に出陣したのを受けて、合肥へ
10万の大軍を率いて出陣した。
対する曹操軍は、合肥に張遼・楽進・李典の各将軍と
7千余りの兵士のみ・・・
正史『張遼伝』によると、戦力差では断然不利な曹操軍は、護軍(ごぐん)の薛悌(せつてい)が予め曹操がこの合戦が襲われた際に開封するよう指示が有った命令書を開封すると
「孫権が攻めて来たら、張遼と李典は城を出て戦え。楽進は守って戦ってはならない」
と書き記されていた。
この命令書を受けて張遼は、孫権軍の包囲網が完成する前に
李典と奇襲作戦を決意。
普段は
張遼と仲の悪かった楽進・李典も、私情より「国家の大事」を優先して一致団結したのでした。
そして、800名の奇襲隊を選抜した張遼は、夜明けとともに出撃して陳武ら二人の将校をを含む数十名の兵士を斬り伏せて、孫権を小高い丘の上に撤退。
更に奇襲隊の一部が取り残されそうになると、張遼は包囲網を突破して救出。
この張遼の無双の戦いぶりに、孫権軍はやがて戦意を失って自ら道を開ける始末だったと言う。
まさに、『三国志演義』の長坂橋の戦いで
趙雲が単騎で劉禅(幼名:阿斗)を救出したシーンをリアルで体現したと言って過言ではないでしょう。
この奇襲後、孫権軍は10日余り合肥城を包囲するも城を落とせず、伝染病が流行した事も有って撤退したのでした。
曹操から授かった簡易な命令書から
正確に戦況を把握した戦術構想力に加えて、
敵軍の戦意を喪失させる程の圧倒的な武勇。
これこそ、正に張遼が
武人としての頂点を極めた戦いとなったのです。

安徽省合肥市の逍遥津(しょうようしん)公園に有る張遼像
三国志大戦でも、張遼の知力が2.5コスだと刻印ながら8、3コスだと9有るのも頷けますね✨
この合戦以降、張遼は江東の民から深く恐怖心を植え付ける形となり、張遼が病気で亡くなった222年に有った長江付近の合戦でも、孫権から
「張遼は病気とはいえ敵対してはいかん。気をつけろ!」
と警戒心を怠らず命じている。
更に唐の時代になると、このエピソードが採用されて、『蒙求』(もうぎゅう)と言う四字一句の韻文で記された故事集の中で
「張遼止啼」
訳:『張遼がやってくる来るぞ(遼来、遼来)』と言えば、泣いていた子供さえも泣き止んだ
と後世の私達に広く伝播される事になったのです。
【司馬懿司馬炎vs業炎兀突骨バラ】
今回は逆視点動画です。
この対戦は、初見で兀突骨の単車戦法による弾き+復活と、覚醒3付近で打たれた丁奉のダメ計で足並みを崩されて厳しい展開💦
それでも、士気フロー対策と遊軍を加味しての
牽弘からラインを上げて、司馬炎の排+司馬師と畳みかけて勝利を収めました✨
最後の司馬師を使う際は、
「業炎を使う士気が有ったら終わり」と割り切っていました。
結果的に、業炎を使う士気が無くて助かりました😅