まあ、いいんじゃないかな(ルシフェルさんボイス)、と言われたんで、三国志大戦のカード化されている人物のお話をば。
第一回はとっつきやすそうな人物。
そうだね、荀彧だね。
姓は荀、名は彧。字を文若(ブンジャク)。
生まれは許昌。
名門である荀家の次男の家系の出自である。
人相占い師の許劭にも才を認められ、幼い頃に別の人物より「王佐之才」(オウサノサイ:要は位の高い人を支えその者を天下人に押し上げる事が出来る才能の持ち主)と評された。
群雄割拠渦巻く戦乱の時代に、董卓が都を我が物として専横してた頃に推挙を受け董卓の下にて士官をする。
時代が更に混乱を生むと読み、転居を願い出て許可が下り、自分の家族(嫁と父母)を連れて都を離れ冀州方面へと移り住む。
この時の冀州方面は袁紹軍の領地(正確にはちょっと違うがまあ移り住んですぐにでそうなりましたので割愛)であった為、その王佐を求めた袁紹により好待遇をもって士官をします。
が、荀彧はすぐさま【袁紹は王の器に非ず】と判断しその力を存分に振るわず出奔を致します。
(この段階で袁紹に同じ評価を下した人物が二人いますが、それはまた別のお話。)
その際に圧遇を以て招き入れたのが曹操となります。
曹操曰く
「我が子房を得たり」
(意訳:すっげ!俺さ張良に憧れてんのよ!で、その憧れの張良…いやそれ以上の人、手に入れちゃったもんねー!!いえーい!ラッキー!!)
と大手を振って喜んだそうな。
それからの荀彧は曹操の下でその才能をいかんなく発揮します。
主に内政面と人材面では殊の外、荀彧の功労はデカかった。
特に人材面においては凄まじいと言えるであろう。
どのくらい凄いかというと
戯志才、荀攸、郭嘉、陳羣、鐘ヨウ、辛ピ、華キン、王朗、司馬懿etc
とまあ、挙げられるだけでもこのくらい。定かではない所も含めると、かなりの人材を曹操に推挙している。
それだけではなく、人柄は温厚。自身の才を歯牙にかけるでもなく対する相手を誉め、それが一切の嫌味が感じられないとか聖人君子にも程がある。
三国志きっての根暗ヒッキーの司馬懿や嫉妬の心は親心の華キンですら「好き好き文若!」と荀彧ファンクラブ会員である事が最早その才人の証明であろう。
そんな司馬懿と荀彧と曹操の間にこんなエピソードがある。
曹操は司馬懿を重く用いたがったのだが、当の司馬懿は曹操に重く用いられるのを頑なに拒んだ。
あんまりにも曹操が使いの者をよこして重く用いようとするものだから、自宅に引きこもってしまったのだ。(その後の下りは司馬懿と張春華の間にあったアレがある)
それでも曹操は司馬懿の才を諦めきれずにいた。そこで荀彧に相談したところ
「では私が一筆したためておきますゆえ、それを使いの者に持たせてください。」
と言って推薦状をしたためたのだ。
そして、5回目(多分その位だったと思う)の使いの者のご訪問の際も司馬懿は追い返そうとするが使いの者曰く
【お手紙が御座います。荀彧様からです。】
と聞くや否や
「オメーよォ!それを早く言わんかい!荀彧様からのお手紙でしょ!?推薦状でしょ!?さっさと寄越せよ!参内でも何でもすっからよ!!」
と、手のひら大回転っぷり。
流石の曹操も苦い顔をしたが、たっての非才のを手に出来た喜びが勝って司馬懿も荀彧にも感謝を述べたそうな。
まあ、実のところ荀彧と曹操の間にはこのころから少し亀裂が生まれていたんですけどね。
と、言うのも曹操は
【漢王朝を存続させた上で改革を図るなら自身が一時的にでもトップに立って国を大きく動かす必要がある】
と言う考えで以て行動をしていたのだが、一方で荀彧はというと
【如何な理由であろうと帝より上に立って国を動かすのは言語道断】
と言う考えを持っていた。
国を動かし改革を促すという意見は一致していたが、根本の考え方が違っていたのだ。
その亀裂を感じ取ってかお互いはそれぞれ距離を置くようになり、曹操は荀彧の意見を聞かず荀彧もまた曹操への献策を上ざないようになっていった。
そんな折、荀彧は病に倒れる。
曹操はその事を知ると最初は「自分に小言を言っても聞かねぇから拗ねて仮病でも使ってるんだろう」程度に思っていたが、徐々にマジモンの病気であると知るや否や
「文若!俺が悪かった!病気を治して早く参内してくれ!!キミがいないともーちゃん何にも出来ないの!!」
と泣き言を言い出して手紙までしたためた。
その手紙は荀彧の下に届き荀彧も
「大殿とは長い付き合いですから、言いたい事も解ります。へそを曲げている場合ではありませんね。早く病を治して参内する事にしましょう。」
と返事をしたためた。
それを読み、曹操は見舞いの品を届けるに至ったのですが…真相は闇の中。所謂
【空箱事件】
の勃発である。ここを境目にして荀彧は一気に病が悪化。そのまま帰らぬ人となりました。
一説によると曹操は荀彧の死を我が事のように悲しみ、自身の身内の墓に荀彧を入れて弔う様に指示したとされていますが、
また一方で曹家ゆかりの墓に弔われてない事から口先だけは悲しんで遺体はさっさと焼き捨てたともいわれています。
また、荀彧はやらせれば戦上手であったと言われています。その一つに濮陽攻防戦が挙げられます。
呂布の軍勢が濮陽を陳宮の手招きにより侵入。そのまま占領と相成った際に、濮陽の商人や権力者に手を回し、
呂布の軍勢の兵の一部を自身の兵として招き入れ取り返してしまいました。その際に無血で行われたとも、城内で一戦交えたともいわれていますが、
実際はどうなのか解らないですね。
ともあれ、策を用いて呂布と陳宮を場外に叩き出す事に成功はしております。
しかし、荀彧はあまりそういった表に立って戦をするよりも、後方から手を回し前線を支援する方が遙かに上手かったので曹操もそういう役割を主に与えていたようです。
以上、まあ、雑では御座いましたが荀彧についてババーッと書き綴ってみました。
ホンマね、何で魅力持ちじゃないの?ってレベルの聖人君子っぷりです。是非とも調べてみて下さい。
では、この辺で。
いろいろな小説、マンガや映画で、曹操と荀彧のやりとりは、変化をつけて表現されますよね♪
曹操配下の軍師は短命が多かったのが、曹操の天下統一出来なかった理由の1つと言われますが、荀彧もその要因の1つですね。
個人的には、当時50歳なら寿命が近いぐらいなので、激務の中で病で亡くなったのかなぁと思ってます。
善悪評価はともあれ董卓→袁紹→曹操の形は実質漢を動かすに足る人物を見に行った感じなので、やはり漢の臣なんだなぁと思いますのだー。
曹操の廟に合祀されなかったのって曹丕のせいじゃないかなとか勝手に思ってます。