それでは
中編からの続きです。
前述した通り、曹植を推した諸侯の粛清は血縁者の曹彰にも及びます。
魏を中心にした歴史書『魏略』によると、220年の曹操死去の際、曹彰は曹植に
「父は臨終前に我を呼ぼうとした。これはお前を継がせたかったに違いない。鄴(ぎょう)にいる曹丕を討とう」
と勧めました。
しかし、曹植は
「袁紹亡き後の跡目争いを存じないのか」
と断るのでした。
このやり取りを曹丕は知ったのか、異民族討伐の功績など関係なく曹彰の軍権を奪います。
そして223年、曹彰が曹丕のいる洛陽へ赴いた際、曹彰は急死したのです。
死因は不明ですが、後世の小説『世説新語』(せせつしんご)では、曹丕によって毒を付けた棗(なつめ)を食べさせて殺したという内容まで進展しています。
これまでの粛清や嫉妬深い曹丕の性格からすれば、あながち間違いとは言えないでしょう。
そして、肝心の曹植にも粛清が及びます。
220年、曹植は都の洛陽から封邑(ほうゆう)地の臨菑(りんし)へ移封。
これを皮切りに、221年は鄄城(けんじょう)、223年は雍丘(ようきゅう)、227年は浚儀(しゅんぎ)へ移るといった国替えを強いられました。
なぜこのように短期間で異動されたのか。
理由として、曹植のような名声の高い人物が長期間続けると、君主より忠誠心の高い側近や住民が生まれるのを抑えたからとみられます。
どれだけ移ったのかは、講談社の『三国志データファイル』に詳しく掲載されています。
封邑地での生活は、護衛に当たる兵士は老兵100人ばかり。
外界から遮断され、朝廷に赴くことも許されなかったのでした。
このように、曹丕は
曹植を推した諸侯に対して「反乱分子」または「目障りな存在」とみなし、諸侯の力を落とすように努めたのです。
この方針は、曹丕亡き後の曹叡も引き継がれます。
232年、曹植は久しぶりに朝廷への参内(さんだい)を命じられます。
曹植はこれまで何度も登用を望んだ文の成果が実り、登用されるのかと思いました。
しかし、いざ朝廷に入ると、その願いは叶わないと悟り帰国してしまったのです。
そして、この年に病を発して死去。
わずか享年41歳という短命。
晩年は曹丕・曹叡の
徹底的な外戚冷遇政策により、歴史の表舞台に立てぬまま終わった生涯でした。
以上となります。
明日は休みにして、明後日は統一戦のレポートを投稿します。
歴史にもしもはないですが、曹操が曹丕、曹彰、曹植に交流の時間を与え、それぞれに兄弟としての意思の疎通をさせておけば、各々に能力があったのですから、曹家はまだまだ長く続いたのではないかと思われますね。
曹丕の内政、曹彰の武、曹植の文、なんとも勿体ないと思いますね。
兄弟で相談出来る間柄ならば、後の呉との戦いも成功していたかもしれませんね。
>みいけんさん
本文の通り、曹丕の徹底した外戚冷遇政策は、曹家が短命に終わった原因の一つとされています。
おっしゃる通り、曹兄弟が力を合わせたら司馬氏への専横から晋への鞍替えすること無く、中華統一をしたに違いないですね。