それでは、かなり前となった
前編の続きです。
214年頃、曹植と兄の曹丕の間で曹操の後継者の座を巡り激化しました。
曹植側には丁儀(ていぎ)・丁廙(ていよく)兄弟、「K6」ならぬ「鶏肋」で有名な楊修、楊俊、荀彧の息子の荀惲(じゅんうん)らが、曹操に後継するようすすめました。
一方、曹丕側には荀彧、司馬懿、賈詡、陳羣らの名士層が曹操に儒教の教えの一つ「長幼の序」を重んじるべきと説きました。
曹操は人事制度の新たな価値基準として、人物批評に優れた人から推挙される郷挙里選から、実力重視の唯才推挙を考えていました。
しかも、特に曹一族の得意分野である文学を奨励した点を考慮すれば、曹操の心中(ホンネ)は文才に秀でた曹植を後継に考えていたとみられます。
しかし217年、曹操は曹植ではなく曹丕を後継にしました。
後継を選ぶにあたって
①赤壁の戦いの敗戦によって天下統一が遠のき、今後も名士層の力が不可欠
②礼儀を軽んじ、天子の専用通路を勝手に通行するといった曹植の素行ぶり
等を鑑みると、やむを得なかったのでしょう。
そして220年、曹丕が皇帝となると、曹植を推した家臣の粛清を始めました。
まずは丁儀・丁廙の丁兄弟が一族もろとも処刑。
更に、楊俊も難癖をつけて自殺に追い込んだのです。
以上の粛清を踏まえて、219年に曹操の手で処刑された楊修も曹植を強く推したことを鑑みると、
ゆくゆくは処刑される運命にあったと言えるでしょう。
以上となります。
今回の続きは明後日にします。
家督争い後の粛清は、どの時代にもしょうがないとはいえ、楊俊ほどの人物を自殺させれた魏の人材の豊富さは、羨ましい限りですね。
楊俊しかり、楊修しかり、頭が良すぎたり、頭だけなのも出世は出来ても短命になるように思えます。
今も昔も。
うっすら前編を読んだ記憶があるので確認したら、ほぼ2年前の投稿じゃないですかwww
連載再開良かったです。後編楽しみにしてます!
>みいけんさん
魏は呉と蜀を合わせても国力が上ですから、人材が豊富なのも必然でしょう。
楊修に関しては、運に恵まれなかった側面もありますね。
>うさまるさん
楽しみにされていらっしゃってありがとうございます!
後編も面白いとコメントされたら幸いです。