前編はコチラ
山頂に敷かれた蜀の陣を見た
張郃は呆気に取られます。
「………蜀軍を指揮しているのは無知の者か?」
張郃は遠巻きから山を取り囲み、水源を絶ちます。
飢えと渇きに苛まれる兵士達は戦意喪失どころではありません。絶望しかありませんでした。
馬謖は決死の思いで逆落とし攻めを敢行するものの、将兵達は本来の力を発揮する事なく無惨に倒れていきます。
ついに
馬謖は兵士を見捨てて逃亡。
しんがりを務める
王平が、潰走する兵をまとめて持ちこたえるも軍は壊滅。
別働隊で囮役をしていた
趙雲隊が機転を利かせて引き返し、補給部隊を打ち払った事により魏軍に更に攻め込まれるのは防ぐ事が出来ました。
ですが、第一次北伐は失敗に終わります。
報告を聞いた
諸葛亮は落胆します。
それは敗戦のショックからだけではありません。
馬謖は作戦の意味を全く理解していなかった…。
・
魏と蜀。
経済力も軍事力も、2つの国の差は歴然としていました。
総力戦となってしまえば、蜀に抗う術はありません。
諸葛亮が勝機を見出していたのは、相手の力を分散させる事でした。
馬謖に課した「街亭の防衛」
それは負けるのは当然として「勝ってもいけない」ものだったのです。
二陣、三陣と続く魏の大部隊は、別働隊の
趙雲・トウ芝達にも注意を払わなければなりません。
思いがけない場所から急襲があるかもしれない…。
張郃軍と
馬謖軍が膠着状態となっていては、何処から来るか分からない蜀軍に備えて「誰も居ない戦場」から動けなくなるのです。
・
魏の力による支配に不満を抱く豪族、部族は中華全土に居ました。
ですが大国に歯向かう事も出来ず日和見となっていました。
「魏の大軍勢でも蜀の侵攻を止めれない」
そうなれば各地に燻っている火種は燃え上がる事になるでしょう。
魏を四方から囲む彼らが蜂起したならば、かつて
関羽存命の時に形成されていた「魏包囲網」を再び築く事が出来ます。
リスクの大きさから却下していた
魏延の「長安奇襲作戦」も現実のものとなり得るのです。
…その計画も全て水泡と帰しました。
・
やがて罪人として捕えられた
馬謖が戻ってきます。
彼の独断専行が過ぎる行動により、多くの将兵が命を落としました。
魏を打ち破る千載一遇のチャンスも逃します。
軍議に照らし合わせるなら死刑に相当する罪です。
ですが「
馬謖の類稀なる才能は今後も必要だ」と称える者も居ました。
本来、そんな誰よりも
馬謖の才覚を愛していたのは
諸葛亮でした。
「泣いて馬謖を斬る」
規律を保つため、個人的な思い入れは捨てて、違反者をきちんと処罰すること
現代でも使われる中国の故事成語です。
もし
諸葛亮が
馬謖の俊英さだけではなく、胸に秘めていたコンプレックスを見抜く事が出来ていたなら、このような言葉は生まれなかったかもしれません。
そして蜀の未来は我々の知るものとは違っていたかもしれません。
→to be continued…
晩年の諸葛亮の人采の悪さは、魏延の話のさいにもコメントしましたが、この馬謖の件もまさにという例だと思ってます。
劉備が持っていた人を采配する力。
これが、諸葛亮に少しでもあったならと思う。
蜀は諸葛亮により作られ、諸葛亮により滅んだと思っています。
>みいけんさん
劉備は「人に頼る力」があった人だと思います。
部下を信頼し、相手もそれに応えた。
諸葛亮は有能故に一人で全てを背負ってしまったのでは無いでしょうか?
「徐庶や龐統、法正が居たならば…」と考えてしまいます。
諸葛亮が水源のことについて
馬謖に言ってたら変わったんでしょうかね?
てか何で山でなく道に陣を敷くのかと
諸葛亮に質問しなかったのだろうかとか
馬謖自身で水源のことに気づかなかったのか、など
考えるほど残念感が増していきました…
>文波さん
俺の勝手な憶測なのですが、諸葛亮も馬謖も「言わなくても(言われなくても)それぐらい分かってる」と過信していたのでは無いでしょうか?
その後何度も北伐しましたが、第一次北伐ほど成功率が高そうな機会はありませんでした
ほんと考えるほど残念に思います…