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諸葛亮と魯粛、それぞれの天下三分の計

by
紫苑
紫苑
呉の軍師・魯粛は、魏の荀彧、蜀の諸葛亮と並ぶ長期的な戦略・行動を立案する軍略家でした。

魯粛は、諸葛亮と同じく広義で「天下三分の計」を立案しました。
しかし、この天下三分の計は、両者それぞれの方向性の違いがあります。

これを、三国志学会事務局長で映画「レッドクリフ」とドラマ「三国志Three Kingdoms」の日本語版監修を手掛けた早稲田大学教授の渡邉義浩氏は
「手段」と「目的」に分けています。




まず、諸葛亮は、天下三分の計を「手段」として採用しました。

その内容とは、孫権と同盟を結び、荊州を所有した上で益州を攻略する。
そして、最終的に中原の曹操を倒して、漢室復興を成し遂げるものでした。

これは、漢王朝と深く影響を与えた儒教の中にある「聖漢の大一統(漢による中国統一)」に沿った構想。
また荀彧の「献帝擁立」と同様、漢王朝を手助けをする「漢室匡甫」を実現する上では、最も王道とされるものでした。


しかし、これを果たす上で孫権との同盟と荊州所有が大きな難題を抱えていました。
そこへ「助け舟」として現れた魯粛の協力もあって、この難題を乗り切ったのです。




一方、魯粛は、天下三分の計を「目的」として採用しました。

その内容とは、最初に孫権と二人きりで会話した正史「魯粛伝」の中にあります。

要約すると、

曹操はもはや強大で漢室復興は不可能
だから、江東を足場にして荊州と益州を攻略したら、主君は帝位に就くべし

と言った内容で、漢王朝の復興そのものを実現不可能とし、この時点では天下二分と言えるものでした。

しかし、劉表の死去及び曹操の南征で、単独での勢力維持は困難として、戦略プランを変える事になります。

魯粛は、孫権に劉表への弔問を名目に荊州の視察を願い出ます。
そこで劉備陣営と会談した後、(魯粛が本来の目的である)劉備が同盟相手に相応しいとして、
同盟を結ぶ事になったのです。

そして、赤壁の戦いの後、劉備は孫権から申し入れされた孫夫人(孫尚香)との婚姻の為、呉へ赴きました。
その時、呉へ赴いた劉備の胸の内は、孫権に荊州の都督を願い出るものでした。


そこで周瑜は、正史「周瑜伝」の中で

劉備は、いつまでも人の下に屈するはずが無い。
だから、劉備をこのまま拘留して、美女や財宝を与え続けて呉に懐柔すべき(要約)

と提言しました。

一方、魯粛は、正史「魯粛伝」と同書の注を引く「漢晋春秋」の中で

劉備に荊州を貸し与え、協同して曹操の侵攻を退けるのが良い(要約)

と、孫権に提言したのです。



この二人の提言に対し、孫権は魯粛の方を採用しました。

その理由を孫権は、正史「周瑜伝」の中で

曹操に対抗するには、なるべく多くの英雄を手なずけなければならない。
また、劉備に対してどんなことをしても、(現実的に懐柔するのは不可能だし)結局は自分の元を離れるだろう

と述べています。
しかしながら、後年になって、孫権は「荊州を貸したのは失敗だった」と後悔しています。


孫権が「劉備に荊州を貸した」と言う一報を聞いた曹操は、ショックの余り筆を床に落としたと言われています。

それまで、曹操は孫権と劉備が時期が経てば、互いにゆがみ合うに違いないと考えていました。
それだけ、自軍の勢力拡大が現実的に難しいと判断すれば、同士の勢力拡大をサポートする構想には舌を巻いたのでしょう。



こうして、赤壁決戦以降、諸葛亮というよりは同僚の張昭から「傲慢」と非難された事もある
「異端かつ現実主義者」の魯粛主導の天下三分構想によって、三国時代が始まろうとしたのです。



以上、今回はここまでと致します。
次回は、引き続き魯粛の凄さをよく表現している場面が「三国志Three Kingdoms」
の中にありますので、紹介して行きます。
 
更新日時:2020/08/03 23:53
(作成日時:2020/08/03 23:42)
カテゴリ
雑談・雑感
コメント( 4 )
4件のコメントを全て表示する
紫苑
紫苑
2020年8月4日 11時50分

>Zeroさん
ありがとうございます(^ ^)
某配信者の言葉を借りれば「やる気が出ます!」

Zero
魏蓮
特イベ
特イベ
魏蓮
2020年8月4日 18時14分

蜀を除けば魯粛が1番大好きなので次回も楽しみにしています(^o^)/

紫苑
紫苑
2020年8月4日 22時44分

>魏蓮さん
蜀愛好家にとって、魯粛は良き理解者ですからね。
呉の家臣の多くは、魯粛の方針に反対を唱えてましたから、魯粛はその家臣と折衝する時間を相当費やしたかと思います。

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