今回は、呉の四天王で程普と並ぶ宿将・韓当を紹介します。
韓当は、公孫瓚と同じく幽州の遼西郡令支県で生まれました。
これには、読者の全てが意外だと思うでしょう。
更に付け加えると、程普も幽州の出身(北平郡)なのです。
韓当の出身地は、中国の辺境の地という土地柄なので、韓当は弓馬に優れ異民族の血を継いでいたのではないかと推測されます。
もしこの通りなら、馬の韓当も普通に登場してOKですね。
黄巾の乱の翌年となる185年、涼州で韓遂・辺章の乱が勃発しました。
その際に、孫堅と公孫瓚は車騎将軍の張温から参軍として招かれました。
公孫瓚軍の中には、「幽州突騎」と呼ばれた精鋭の騎兵隊も参加してました。
しかし、幽州で張純と丘力居らが反乱を起こしたので、公孫瓚は軍の一部を幽州へ引き返す事になりました。
この時、
残された幽州突騎の中にあの韓当が残って孫堅と出会い、主従関係を結んでたのではないかと推測されます。
孫呉の四天王の一人・韓当には、3つの興味深いエピソードが有ります。
叩き上げの特殊部隊長
孫堅と主従関係を結んだ韓当は、反乱の鎮圧の為、各地を転戦しました。
韓当は、しばしば危険な事を犯してまでも鎮圧に精を出したところを見て、孫堅から別部司馬(別働隊長)に任命されました。
ところが、朝廷からは、韓当を「孫堅から隷属された兵卒」としか扱われてなかった為、爵位を与えられる事は無く、韓当の手柄は孫堅に回されたのです。
しかし、韓当はこのような仕打ちにもめげませんでした。
孫策の代には、江東平定(劉繇や劉勲討伐)に貢献し、先登校尉(せんとうこうい)に任命されました。
ここで、ようやく2000の兵と50の騎馬を持つようになったのです。
そして、孫権の代に中朗将(ちゅうろうしょう)に昇進してからは、
赤壁の戦い・南郡攻略戦→偏将軍・永昌(えいしょう)太守
夷陵の戦い→威烈(いれつ)将軍・都亭侯(とていこう)
といった具合に、年齢と相当する役職に昇進するようになりました。
更に、夷陵の戦いの翌年の223年には、曹真の南郡侵攻を撃退した事で、昭武(しょうぶ)将軍、石城侯(せきじょうこう)、冠軍太守となり、都督の称号まで得ています。
厠で放置された黄蓋を保護
赤壁の戦いでは、自ら偽りの投降を見せてからの火攻めで、曹操の大船団に命懸けで火だるまになって突っ込んだ黄蓋。
曹操の大船団に突っ込んだところまでは良かったものの、その後は流れ矢に当たって長江に落ちてしまいました。
すぐに引き上げられたのですが、黄蓋だとは気付いてもらえず雑兵と勘違いされ、厠(便所)で放置されたのです。
赤壁の戦いは晩秋から冬の季節だったので、黄蓋は傷の痛みと寒さで相当辛かったでしょう。
そうしていると、黄蓋だと気付いてくれた武将がいました。
その武将が韓当だったのです。
もし韓当が気付いてくれなかったら、黄蓋は命懸けの突っ込みが報われる事無く、野垂れ死になっていたかもしれません。
韓当の柩は魏国の地へ
数々の戦地で危険を顧みず戦果を上げた韓当は、226年、突然の病で死去(異説あり)。
韓当の息子・韓綜(かんそう)は、父の代で得た兵と爵位を引き継ぐこととなりました。
韓綜は、勇猛で誠実な父とは異なり、正史「韓当伝」の中には
「淫乱(いんらん)にふけり無法を働いた」
という程の素行不良を働く有様でも、孫権は韓綜を父の功績に免じて咎める事はしませんでした。
しかし、韓綜は危険を察知したのでしょう。
227年12月、韓綜は韓当の柩(ひつぎ)を持って、母親や家族、部曲(私兵)など、男女数千人を引きつれて魏に亡命したのです。
こうして
孫家三代、孫呉の為に命懸けで戦った韓当は、残念ながら死後は魏の地で葬る事になったのです。
そう言えば、韓綜はまだ大戦シリーズで登場されてませんね。
もし登場するなら、龐徳のように柩を担いだ格好のイラストで登場して欲しいです。
ただし、龐徳のようなイケメン顔は避けてもらいたいなー
以上となります。
次回は、「功績は文句無しのSR。しかし、何故かSRが未登場」の魯粛を2回に分けて投稿します。
いぶし銀のスペック武将のイメージ定着してましたが「叩き上げの特殊部隊長」格好いいですね!
黄蓋便所放置事件だけは知ってましたが、他は初めて聞いたエピソードで勉強になりました。
息子の話は切ない…。
その人無くして周瑜の活躍も呉の存続も無かったほどの大物魯粛。
大戦での扱いは不敏に思います…。
次回の投稿も心待ちにしてます!
>うさまるさん
黄蓋の放置事件は知ってたんですかw
息子の素行不良で、父が積み上げた功績を台無しにしたのは残念ですね・・・
次回からの魯粛については、読者が「魯粛SR化希望」と思わせるような内容にできたらと思ってます。
四天王は孫堅の旗揚げから付き従っているイメージがあったので、韓当・程普の出身地は意外でした。
1.5弓のスペックは韓当基準で作られてるのか、いまだに第一線で戦えて頼もしいです。
最高の武将じゃねぇか…
二世がぱっとしないのは普通だけど父の功績を一代でおジャンにするの凄いですねw 秒で魏に逃げてるのも草
>しろからすさん
呉の重臣は大体江東出身で固められてますから、古参の武将もそうかと思いますよね。
そして、(大戦4から1.5コスに代わっても、)韓当は楽進や龐徳と並ぶ「コスト比最高のスペック武将」とされているので、安心して使えるのが大きいです。
>劉禅の夏休みさん
ご感銘を頂いたようで何よりです。
今回、韓当を紹介したのは、最後のエピソードが実に良いオチになっているからです。
それにしても、韓綜はどんだけ不孝者なのか・・・
あと、本文で書くのを忘れてましたが、韓綜は252年の(合肥近くにある)東興の戦いで戦死してます。
そして韓綜の首は、この年に亡くなった孫権の廟に供えられたそうです。
この韓綜の首の行き場所について、呉ではなく魏に行くべしと思うのは私だけではないでしょう。
韓当は義勇ロードで何か孫堅の前に湧いて出たので、何していたんだろうとは思っていました、疑問が解けました。
東興の戦いで戦死、愚か者は下手に亡命してもどうにもならんという事なのでしょう。
戦死して呉軍に首を取られて、憎き韓綜を孫権の霊前に供えん、という事なのでしょうか。
面白かったですw
>yunatogirlsさん
疑問が解けたようで良かったです。
亡命した韓綜は、仮に有能であっても、如何せん素行ですから・・・
層の厚い魏なら、所詮、呉の事情を知る為に利用されたに過ぎなかったんでしょうね。