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貴方の○○はどこから?

by
伏龍殿の覇者
伏龍殿の覇者
諸注意:この記事には私見が入っています。

先入観…それは時に人物のイメージを大きく歪めてしまう…
あなたの三国志はどこからでしょう?
私は三国志大戦です!三国志大戦をやる前までは僕が言える三国志の武将は桃園組と曹操と夏候惇くらいでした!多分
ですが、当時はソシャゲに無闇に三国志のキャラが出たりせず(探検!ドリランドに三国志の武将は出ないでしょう)、三国志の置き型ゲームをやっていたりしないと三国志に触れる機会ってあまりなかったのではないでしょうか?

しかし三国志のイメージとは、言ってみれば大抵三国志演義のイメージであったり、更に誇張されたゲームのイメージであったりすることが多いですね。勿論自分も含めてそう思っています

有名な所で言えば呂布の元々付いていた役職は主簿で、帳簿を付けたり印鑑を管理したり、バリバリの文官です。
なので中国でのイメージはパワーに任せる筋肉タイプ!というよりは頭が切れて渡り歩いていく武将、というイメージらしいですね。
このことは書物に付いている画を見ると分かりやすく、下図では方天画戟や特徴のある翎子(りんず)が見える事で呂布だと分かりますが、この細い眉に薄い鬚にスラっとした出立は豪傑というイメージとは少し離れているのが分かると思います。
(試しに張遼や許チョを置いてみましたが、呂布の描かれ方に多少の美童のようなイメージが見て取れるでしょうか?)



上の図で見ると分かりやすいですね!!と言いたいところなのですが、当図は清朝期(1600年ごろ)の物らしいので、少なくともその時代でのイメージというところでしょうか。そもそもこの翎子自体が呂布のイメージとしてどこで形成されたのか分かりませんでした、京劇からの逆輸入なのかと考えてみましたがそこらへんどうなんでしょ。

歌川国芳の浮世絵では呂布が空の黒や隈取から色白の鬼神のように見えます。
(リンクが貼れなさそうだったので「歌川国芳の浮世絵 三国志」で調べてください…)
劉備との対比で見ると、劉備の方が(言葉を選ばずに言えば)おっさんです。
言葉を選べば偉丈夫という感じですね。

二つ名も三国志演義を母体に見れば「飛将軍」というもので、前漢時代の将軍「李広」からとられたものです。今のイメージからすれば小覇王とか悪来の再来とか、そんなの呂布に付けるべき名前に見えそうな感じもしますが、飛将軍の方がスマートな伝わり方だと思いません?ちなみに李広ってキングダムの主人公(李)信の子孫なんだって、へぇ~、知ってた?

上記のことから(三国志大戦における)呂布のイメージは近年に形作られたものが土台になっていると思われます。
一体何無双で作られた無双のイメージなんだ…

とここまでが掴みの部分です。掴まれてくれたかな?本題が薄くてね、しょうがないね

ここから本題

以下の文章、知っている人は知らないふりをして勘付いた人は素知らぬふりをして読んでみてください。

「○○は定軍山にある諸葛亮の墓の祭った。
生贄を捧げると、風が止み、雲は去り、天気は晴れ渡った。
その夜、寝ていると一人の男が訪れた。
男は(羽扇に羽織、神仙の様な気配を漂わせと言った出立で)こう言います。
「今朝はありがとうございました。ところで貴方に伝えたいことがあります。
漢が衰えたのは天命に違いありませんが、両川(蜀の地名)の民の命は兵の手にかかっており、哀れでありません。貴方が蜀に入ったなら、民を殺さないでください」
と言って立ち去った。
引き止めようとしてはっと目が覚めると、それは夢でした。
それが武侯(諸葛亮の諡号)の霊と気が付いて驚き、そこで○○は軍に「保国安民」と書いた旗を掲げて行軍するよう命じると、漢中の人々は歓迎しました。」


どうでしょう?どんなイメージを持ったでしょうか?
良いイメージでしょうか?悪いイメージでしょうか?
まぁこれ一つでは判断できない、と言いたいところでしょうが私は「なんだか良い人のイメージを作ろうとした」ように感じました。

次に
「劍閣の旗を降ろすと、姜維は張翼、廖化、董厥を連れて○○に降伏に訪れた。
○○を喜び、それを迎え入れると「どうしてこんなに降伏が遅れたのか?」と尋ねると姜維は「私は国家の軍勢を預かるものであり、これでもまだ早過ぎるくらいだ」と答えると、○○は驚き向かいの席に座り、上客のように扱った。
~略(訳せなかったともいう)~
そこで彼らは義兄弟の誓いをたてると、姜維に以前のように軍を率いるように言った。」

ここで分かったでしょうか?○○は鍾会の事です。

そして上の二文は三国(志)演義の内容(の要約、できてるか微妙だけど)になります。

自分としては演義を読んだ時になんかイメージと違うなぁ…という印象を物凄く受けました。
少なくともこれだけでは二言目には「新世界…」とか「世界の王…」とか言う裏切る方の櫻井孝宏のイメージ、は出てきませんでした。


というよりは、なんとなく「漢の行く末と司馬氏の簒奪を憂う人物」のように映りました。

正史で見た際、時の政権から見れば、鍾会は明らかに反逆者であり謀反人です。それは異論を挟むところではないでしょう。
しかし例えるなら江戸時代に書かれた真田幸村のように、創作物の描かれ方は世相や想いが反映される部分が多いと考えます。
が、あまりにも現実と離れすぎると三国志演義という物語自体が持つ、虚と実の美しい配分で構成された物語性とかけ離れてしまいます…

上記から、鍾会に持つ(持たせようとした)当時のイメージは「三国志演義のヒーローである蜀の肩を持とうとした魏の最後の人」だったのではないかと考えました。

さて、するとどうでしょう、三国志演義からきたはずの三国志大戦のイメージ、この鍾会はどこから芽吹いた種子だったのでしょうか?
この鍾会は三国志正史からきた裏切りの人だったのか、それとも三国志演義から更に派生した何処かからきた鍾会だったのか…

自宅にいることの多い昨今、下のリンクのような場所でも三国志に触れたりすることができます。
調べると三国志正史自体もネットで読めたりしますので、これを機会に読んでみてはいかがでしょうか?(大体は著作権フリーです!結構前の話だからね!)
https://rtk.sakura.ne.jp/

ということで

鍾会の紹介でした
作成日時:2020/05/06 00:03
カテゴリ
雑談・雑感
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