今回は、暗君と言われている劉禅がどんな人生を歩んだのか、皇帝になった頃から見てみましょう。
正史「後主伝」の注に引く『諸葛亮集』によると、劉禅は
「朝早く起きて夜遅く寝て、敢えて自ら心を緩ます事なく、倹約に努めて民の財産を豊かにし、有能な者を任用し、その進言を参考にし、私心を断ち、へりくだって将士を養成している」
と政務に対して懸命に取り組んでいる様子が伺われてます。
ドラえもんのキャラクターに例えるなら、のび太でしょうか。
もう一つ、劉禅の特徴としては、
自ら政務には積極的でなく部下の意見を素直に聞くところです。
幸い、総じて蜀の臣下達は、郭図や曹操のように「国益よりも私益を優先」することなく、国益優先で働いたと言えます。
最も代表的な例は、劉禅が諸葛亮の死後、政務に対する気の緩みが出て、曹叡の影響を受けてか「後宮を美人で満たしたい」や「宮殿を新築したい」などの要求をしました。
これに対し、董允は「日頃から民に重税を課している蜀にとって必要ない」と諫言して抑えることができました。
このように、
臣下の反対を押し切って進めた曹叡と違い、臣下の意見によく耳を傾けたのが、良くも悪くも劉禅の特徴です。
また董允の存命中は、劉禅から寵愛された宦官の黄皓の昇進を拒み続けてます。
しかし246年、諸葛亮の後継者・蔣琬と董允が亡くなると、自ら直接に政務を仕切るようになり、258年には董允が再三昇進を拒み続けた黄皓が専横するようになったのです。
そして蜀滅亡となった263年、姜維の救援要請に対して、黄皓から勧められた蜀巫の
「陛下は楽しんでおれば良い。数年後は魏は蜀に降るから心配ない」
との神託を信じてしまうと、劉禅は蜀巫に多くの報酬を与え、宮中で酒宴に浸ったそうです。
そんなこともあって、劉禅は鄧艾が雒へ進軍したのを機に、譙周の提言に従い降伏。
翌264年、鐘会と姜維のクーデター後、劉禅は家族と一部の臣下を連れて洛陽へ移ることになりました。
そして、問題の司馬昭から宴会に招かれた時のことです。
司馬昭は劉禅に
「少しは蜀を思い出されますか」と問いかけると、
劉禅は
「ここは楽しく、蜀を思い出すことはありません」と返答しました。
この会話には、双方の心中に、警戒心が当然ながら有ったと言えるでしょう。
これを聞いた蜀の旧臣・郤正(げきせい)は、今度司馬昭が問いかけたら、
「西を向いては心悲しく、一日として蜀を思い出さないことはありません」と返答してから、目を閉じるようにと諫言しました。
そして、司馬昭が再度同じ質問をした際、劉禅が郤正の言われた通りにすると、司馬昭は
「郤正の言葉そっくりだな」と言えば、
劉禅が
「はい、その通りです」と暴露して、そばにいた者たちが大笑いしてしまったのです。
この件で司馬昭は、「諸葛亮が生きてたとしても、この人を補佐していつまでも安泰には出来なかっただろう。ましてや姜維などでは」
と呆れられるようになり、劉禅に対する警戒心は無くなったのです。
そして271年、安楽公に封建された劉禅は洛陽で死去。司馬炎から思公(しこう)と諡(おくりな)されたのでした。
これで貴方の劉禅に対する見方は変わったでしょうか?
私は、
「皇帝即位時は凡臣、蜀滅亡時は暗君」とみてます。
以上となります。
次回は、劉禅ゆかりの史跡を紹介します。
確かに、劉禅は良くも悪くも人のいうことを聞くという劉邦タイプの人だったところは有るのかもしれませんね。
それでも、僕を含めて劉禅ファンが多いのも彼の魅力のなせる技です。
郤正さんから注意されて、「こんな優秀な奴が居るならもっと重用してればよかったなあ。」と反省してる劉禅様もチャーミングです。
>七歩之才さん
黄皓が専横した頃、劉禅は黄皓から相当なマインドコントロールを受けてたと見られます。
洛陽に来て黄皓と離れた訳ですから、郤正を高く評価してますね。
劉禅を評価する点としては、孫晧のように殺戮を繰り返す事無く、(統一国家でない中)皇帝を40年間在位した点です。
司馬昭と司馬炎が、劉禅を厚遇して(過去の功績を称える)諡号を贈ったのは、その表れですね。