みなさん諸葛靜のことをどう思うでしょうか
かっこいいですよね、僕もそう思います
しかし諸葛靜は非常にメディア露出が少ない武将で、横山三国志でも、蒼天航路でも、天地を喰らうでも…まぁ天地を喰らうは細かく覚えてないですけど扱われていません、いないはずです、だよね?
兎も角、普通に暮らしている限りでは漫画やアニメを見ても全く素性が分からない武将と言っても過言ではないと思います。
あまりの分からなさに一度諸葛靜の過ごした時代について調べることにしました。
なんとなく伝わればいいかな程度にまとめていますが、誤りもあると思います、間違っている点があれば、申し訳ない、不運だったと諦めてくれ
※調べるに辺り、資料をまとめるためExcelの機能とほぼ同等と耳にしたGoogleスプレッドシートを使用したのですが、あまりの取り回し辛さに辟易しました。二度とまとめたりしません。
曹姓世代概略
上記の図を見てください。貼る画像を間違ったと思われたかもしれませんが、私の力不足によりこれから説明するにあたって紆余曲折のジェットコースターにお付き合い願わねばなりません。
そもそも調べた際に、時代上たくさんの曹姓を目にすることになりました。曹姓同士が同年代に生きているため複雑に絡まり合った曹姓達は誰がメインの時代か混乱する原因となってしまうのです。ちゃんと死んでから次代の人を呼んでくれ
これは手始めにカード裏面に描かれた生没年が見えるようにしています。
そして何故魏をまとめたかというと三国志に詳しい諸兄らには不要な解説かもしれませんが、諸葛靜の親である諸葛誕が仕官していた時期は
魏国の最盛期、曹丕の生きていた時代の魏となるからです。
下のカードは三国志大戦3の時の諸葛誕、諸葛靜はいない(よね?)
四聡八達
ここにきてやっと本題、諸葛靜が出てきます。やったね。ただし語るのはもうちょっとあとです。僕のまとめる時間にすると3,4時間後です。
諸葛誕は曹丕に仕えていましたが、同時期に夏侯玄等の高名な武将を親に持つ二世の才人を友とし自分たちを四聰八達(三豫)と呼び合っていました。(何晏、司馬師も候補とのことですが、大体カードになってないですね)
四聰八達とは4人の聡明な人物と8人の達人のことです。そしてそれらは…自称でした。
ええ…
しかし実際の所、彼らは決して口だけで才無き者たちではなく、確かな力を持った実力者たちで曹丕、司馬懿にも重用されたり、徳もあり陳寿が語る後世の伝えもさして悪くはありません。
曹叡の時代
曹丕が死去する際、曹叡に時代が移ると四聰八達のことを聞き及んだ曹叡は、そのように自分たちで行う格付けは軽率であり
「名声とか名前とかって絵に描いた餅のようなもので食えないし、飢えた民も養えないんだよ、クビ」と言われて罷免されてしまいます。
※これが絵に描いた餅の語源とのこと、一つ賢くなりました。
それからというもの曹叡の時代では彼らは魏の官職につくことはできませんでした。
いやまぁなんとなくわかる気もします、部下に何か言われても聞き入れませんでした。曹叡は結構強情だったようです。
ただ幸運にもと言うべきか曹叡の在位期間は短く、曹爽、司馬懿に後事を任せて33歳にして早世します。
曹芳/曹爽/司馬懿の時代
曹叡の死後、魏皇帝には曹芳が就きました。
三代皇帝になります。カード化はされていません。きっとされないでしょう
後を任された曹爽と司馬懿は始めは曹芳を上手く支えていました。
ですが次第に曹爽は何晏等取り巻きによって持ち上げられ権力の掌握を考えます。担ぎやすい神輿だなぁ、白塗りだし、気が合ったのかもしれない、白塗り友達
司馬懿を名誉職である教育係太傅(天子の帥)へと祭り上げ、直接政治や軍に近付けないようにします。
しかし過去の司馬懿の功から完全に軍を奪うことができなかった曹爽、そこで逆に功を挙げようと郭淮、夏侯玄等を連れて征蜀に向かいますが…失敗します。
征蜀の失敗による不満の蔓延、政治の状態悪化、そんな折曹爽の自分への扱いを感じ取った司馬懿は高齢を理由に、病気になった…と政権の場から離れ家で寝込むようになります。
その様子を部下に曹爽が見に行かせると口からはよだれ、薬は飲めない、髪はぼさぼさの司馬懿を目にし、当に完全勝利といったところ!やったね曹爽ちゃん!
その後日、曹爽等が少人数で墓参りに出かけると、電撃的にやってきた司馬懿、司馬師、司馬昭等が郭皇后と結託して洛陽を占拠
「富豪で居られるなら負けでもいいっすよ」と降伏する曹爽でしたが、その後キッチリ裁かれて死を賜りました。
曹爽の裁判を命じられたのは何晏、張り切って曹爽を厳罰にして司馬懿のご機嫌を伺いましたが
裁判の後、司馬懿は最後の最後に罪人の中に何晏の名も書き加えるように言いました。ほんとにそういうことする人っているんだね。怖いね。
司馬氏の時代
ここで司馬氏が魏の実権を握り始めます。なんだかずいぶん時間がかかった気がします。まとめている時間もかかったよ
しかし曹爽を処刑したのも束の間、2,3年ほどで司馬懿も死んでしまいます。73歳、いや十分生きましたね。時代感覚狂っちゃうよ(司馬孚は93歳まで生きました。ご長寿モンスターじゃん)
司馬懿、曹爽が死んだ時、魏の実権を握るのは司馬師です。
曹爽の寵臣であった夏侯玄、カン丘倹、諸葛誕、文欽等は次第に魏での立場がなくなっていきました。
そんな折夏侯玄に思いを寄せ、司馬氏が政権を執っていることが面白くない人物が出てきました。(思いを寄せるという表現は的確じゃない気がします。なんか青春の香りがしちゃうので)
人望のあった夏侯玄を大将軍に据え、司馬師の暗殺をする計画を李豊、張緝(張既の子)らが企てます。(いずれも未カード化)
しかし夏侯玄のカード裏にもある通りその企みは事前に露見し、処刑されてしまいます。
夏侯玄は処刑の前、取り調べの際にも堂々としており、取り調べた鍾毓(鍾会の兄)もその堂々たる姿、それが失われることに涙したといいます。(未カード化)
その際、曹芳もついでに廃位します。理由は荒淫だって
余談
話としては逸れますが、夏侯玄の処刑後に夏侯覇が蜀に亡命しています。間柄としては従兄弟程度なのでなんとなくふわふわした亡命の感じもしますが
そこからは曹、夏侯主流派を除くべく動く司馬師の苛烈さが少しだけ伝わってくる気がします。
司馬師の正妻であり夏侯玄の兄妹であった夏侯徽は234年、このクーデターの20年前に司馬師に毒殺されていますが、そのことも何かしらの影響があったのかもしれませんね。
カン丘倹・文欽の乱
夏侯玄らのクーデターから1年後、次に立場が怪しくなったカン丘倹、文欽等は結託して司馬師の排斥を訴え、上奏、挙兵します。
上奏が通らなかったカン丘倹らは司馬師率いる討伐軍と戦います。(どういう理由で上奏したんだろう?)
上奏が通ると思っていたのか、上奏の後にカン丘倹の戦う準備ができていないことを見抜いた司馬師はすかさずカン丘倹のを攻めます。
文欽・文鴦親子の軍は優れた軍でしたが、若く勢いのある文鴦の軍に文欽は合わせる事が出来ず(または一度敗れたため計略を訝しみ、警戒し、軍を出すことはなく)敗走します。
その際文欽・文鴦親子らは呉に逃げ落ち亡命、カン丘倹は命を落としてしまいました。
逃げる際文鴦は「司馬師に抵抗できず軍の勢いを損なってしまった。このまま退き下がることはできない」と言い、自らを含めた十数騎で魏の陣への急襲を成功させます。島津へごもビックリ
急襲の結果、司馬師は眼が飛び出して死にます。
端折るととんでもないインパクトのある二行になりました。初めに読んだ時ギャグマンガ日和か何かかと思いましたが実際には
討伐直前に目のこぶの手術をしていた司馬師は奇襲により状態が悪化、目が飛び出し身体の具合も悪くなり遂には死去します。カン丘倹の死とは7日しか離れていなかったそうです。
ダイターンと言われた文鴦はこの頃に呉に属することになります。
諸葛誕の乱
そして本題とも言えます、満を持して諸葛誕の乱。ここまで読んでる人がいるか本当に不安です。まるで自分以外の人間は既にすべてロボットになってしまったかの如き孤独感があります。
諸葛誕はまず諸葛靜を呉に送り、呉に援軍を求めます。この時ですが諸葛靜の年齢は生没年不詳のため分かりませんが、幼馴染の司馬炎が20歳となっており、大きく離れた年齢ではないと想像できます。
呉は援軍として文欽・文鴦を含めた3万人の軍勢を派遣します。それに対して皇帝曹髦と皇太后が親征する形で、司馬昭・鍾会・王基・陳騫・州泰・石苞・胡烈らを含めた26万の大軍で赴き、城を包囲します。
関ケ原の戦いは総勢で18万人の戦いです。
ええ…コスト守ってよ…
そんなことを言っても仕方がありません。戦いは始まります。
戦いと言っても結果は一方的、大軍をもって城を囲む司馬昭に対して諸葛誕らは城を出る事すら叶いません。
呉は追加の軍勢として朱異らを含めた数万の軍勢で援軍に訪れますが、包囲の一角を破ることもできませんでした。
しばらくすると兵糧は尽き兵は逃散する者が現れ、そして…諸葛誕は仲の悪かった文欽を殺してしまいます。
えぇ…考えて派兵してよ…
そんなことをいっても今更な感じがありますが、その結果文鴦・文虎は司馬昭に投降
普通に考えればそんなことをしても処刑されるところですがスーパー聖人君子の司馬昭は二人を赦します。兄ちゃん目飛び出てんねんぞ
そして文鴦は城兵に向かって「文欽の子でさえ殺されないのに、他の者に何の心配があるだろうか」と声を掛けると、
城兵らの士気は低下し、最後に打って出た諸葛誕もその場で斬り殺されます。
親を失い、魏には戻れず呉に送られていた諸葛靜は呉に仕える事になりました。
下は司馬家への疑惑の深まりから吹っ切れる諸葛誕
年代整理
この後のトピックとして3年後、司馬氏妥当のため曹髦が挙兵、それを賈充・成済が撃退
その3年後蜀の滅亡、司馬昭が晋王の爵位を賜ります。
更に2年後、司馬昭死去、司馬炎を晋王に、そして晋国の設立、皇帝へ…
ここで思います。晋って何だっけ、と
しかしそんなことは言っていられません。
これは三国志大戦で、劉備は蜀の武将で1枚目が出て、司馬昭は晋の武将で1枚目が出るということは畑を耕す子供ですら知っています。
ただそれにしても晋成立後のトピックとしてまとめるつもりであったのに実際にはすべての反乱と諸葛靜を取り巻く環境は蜀の滅亡より前に片付いていました。
こんな全面戦争をしている間に蜀はなにをしていたのか、その間に攻めたりできなかったのでしょうか?司馬昭はそういうの分かってそうなのでこのタイミングで討伐したのでしょうが、それについてはまた別で調べます。
呉の滅亡
諸葛靜はその後呉に仕えますが、それは孫晧が皇帝の時代でした。
所謂孫晧の暴政が始まりますが、それに関してもまた別で調べます。
そうして過ごす内、23年後、晋が大軍を持って呉を攻めてきました。
対して張悌・沈瑩・孫震(未カード化)と諸葛静らは迎え撃ちますが、多勢に無勢、初めから勝てない戦いであろうことは分かっていたのでしょうが、諸葛靜、孫晧を含む呉軍、呉国は晋に降伏します。
そんな中で張悌は「国が無くなるのに一緒に死ぬ者がいないというのは孫呉の恥ではないか」と言って斬り死に、時流を考えれば大国と小国、孫晧も許されたのですから全面降伏の道もあったのでしょうが、それを良しとはしませんでした。
これにより呉は滅亡。
諸葛靜は、司馬炎から昔の誼と仕官を勧められますが…断ります。
それどころか晋への恨みを忘れず、決して晋の都である洛陽のある方向を向かなかったといいます。
というわけで諸葛靜に関する時代考証は終わりです。
いかがだったでしょうか、ここら辺をちゃんと整理できる人、すごいです。尊敬しちゃいます。上手くまとめといてください。
あと群雄伝コミカライズしてください。ついでにアニメ化しといてください。
以上です。敬具
わかりやすいまとめでした。面白かったです(*´ω`*)
諸葛誕の乱は、味方にブンオウいてそれなりに兵数もいたので、野戦してれば、もう少し状況は違ったんでしょうね。惜しい反乱でした。
文鴦が懐かしいですな。今の文鴦も良いですが、3の文鴦も良いですな。
今後、呉でも親子で追加されるのかな。
乱計略も懐かしいですな。戦場の何処にいてもかかるのは良かった。デメリットもありましたがw
興味本位で開いたら最後まで読んじゃいました、分かりやすくて面白かったです。
最後の話で、ぽけっと版イラストが何故背を向けたポーズなのか理由が分かってスッキリした気分です
読んでる内に諸葛靜とかどうでも良くなってきましたwありがとうございます。おもしろかったです。
蜀は確か北伐反対派が権力を握っていたと思います。何年か前に姜維が鄧艾にコテンパンにやられて責任取って大将軍の座から退きました。
それ以降まともに軍事行動を起こせる状態じゃなかったです。うろ覚えですが。