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史実考察ー敬哀皇后・張皇后の実子はいたのか?ー

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燈蝋之斧
燈蝋之斧
こんばんは! 燈蝋之斧です!

さて、今日は劉禅の息子について史実考察をしてみます。いつもやってる史実解説ではないのは、今回内容は史書に記述が無い部分を捕捉するため、私の考察が多分に含まれるためです。

あ、勿論、史実と考察は分けて書きますよ。今回は珍しく年表も入れて解説してみます。

考察する事は、敬哀皇后・張皇后に実子はいたのか?というもの。最近の私の悩みでした。

こんな暇な事考えてるの、私くらいだろう……。

こんな悩みを持ったのは、劉禅の長男で皇太子である劉セン(王ヘンに濬の右部分合わせた字)は皇后の子でなく、王貴人の子だから。皇太子と皇后に血液関係がないのは、皇后に実子がいる場合、まずない取り合わせです。

だからまあ、考察する価値あるなーと。要はアレよ? 私が資料まとめるので、皆で考察しない?って誘いよ。視聴者参加型の企画みたいなモン。相変わらず需要不明だけど。

てな訳で、今回は敬哀皇后や張皇后、王貴人に劉禅一家辺りを詳しく解説&考察してみます。興味がある方は、来て見て触れて下さい。(エビデイヤンライジュネス)


※今回はいつも以上にマニアックな内容です。ご注意下さいませ。

では、はじめ!



〔史実解説パート〕


とりあえず、蜀漢の家系図と皇室周りの年表を出します。


(家系図)

資料①


資料②



(主な年表)
200年 張飛が夏侯覇の従妹の13〜14の夏侯月姫誘拐
207年 劉禅誕生
219年 劉備の漢中王即位に伴い、劉禅は王太子になる
221年 夏侯月姫の子敬哀皇后、劉禅の妃になる。(王貴人も侍女として参内?)
※上記から敬哀皇后は201年〜221年までには誕生と推測される。現実的には、200年代後半から210年代前半に誕生?
223年 劉禅皇帝即位。敬哀皇后も皇后に。(同時期、王貴人が懐妊?)
224年 劉禅の長男、劉セン誕生。母は王貴人。
237年 敬哀皇后死去に伴い、妹の張皇后が宮中に。
238年 張皇后が皇后任命。劉センも皇太子に任命。
249年 夏侯覇が蜀に亡命。劉禅、王子(誰かは不明)を指して、夏侯覇の甥であると話す。
263年 蜀滅亡。劉諶自害。
264年 鍾会の乱に巻き込まれ、劉セン死亡。
271年 安楽公劉禅死去。後継を劉恂にし、次男劉瑶を無視したためゴタゴタが起きる。


家系図はwiki引用。私が確認する限り、資料①は正史の内容で相違はなし。女子は省かれてます。劉禅の娘は最低でも諸葛セン、費恭、関統の妻で3人はいたっぽいです。1人は劉安楽ですね。資料②については、劉センの皇太子任命が237年になっているなど、正史から矛盾あり。同様の記述は、三国志全人名辞典からも見られるため、wiki特有の誤伝や誤引用の可能性があります。なので、()はあんまり意識しなくて良いかもしれません。

ちなみに、劉センと劉諶以外は基本的に名前のみしかわからず。確認者は劉玄に会った孫盛。子孫に直接会ってる訳だし、信憑性はあるでしょう。

問題は、劉セン以外は生母不明な事。劉センのみ王貴人の子と書かれてる。つまり、史書においては両皇后の実子は確認出来ず。

次は、考察に入ります。


〔考察パート〕


最初に結論を述べて、そこから仮説を提唱してみます。


結論:敬哀皇后並びに張皇后には、劉禅との実子はいない


仮説:劉禅は敬哀皇后と婚姻したものの、何らかの理由(敬哀皇后が病弱で子は儲けられなかった、劉禅は政略結婚と割り切っていた?)で寵愛薄く、王貴人が本命であった。劉センが産まれた事から、王貴人は貴人(皇后に次ぐ後宮第2位)の座を得た。237年に敬哀皇后が死去し、代わりの皇后を建てる必要があったが、外戚の関係から再び張氏から皇后を建てる事となった。だが、後継については敬哀皇后との子もなかったため、劉センを立太子させる事が出来た。しかしながら、張皇后との間に男子が産まれると後継争いが起きるため、劉禅は妾との子しか儲けなかった。



上記仮説の論拠は以下の通り↓


・史書において、劉セン立太子時に揉めた話はない
・敬哀皇后伝、張皇后伝に実子の記載がない
・劉セン以外の子の母が不明なのは、史書に名を残す価値がないくらいの身分だったと疑えるから
・後宮を拡充した劉禅なら、皇后外の子が多くいても不思議ではない
・父劉備も穆皇后との間に子はなく、劉禅が皇后との間に子を儲けない選択をしても不思議ではない



とまあ、こんな感じ。次は想定出来る反駁を載せます。


・敬哀皇后と張皇后に実子がないのなら、249年の劉禅と夏侯覇の会話に矛盾が生じないか?
・正史において蜀自体の記載は魏晋程明確でないため、皇后に実子がいたとしても記載されない可能性は?
・そもそも、実子のない皇后は許されるのか?



最初の反駁については、魏の卞皇后が曹操の子で母のない子を養育した話や、呉の孫登の母が庶人だったため徐夫人を母代わりにした話を考えれば、張皇后に実子はいなくとも、子はいると言う事も出来るでしょう。要は養子。

次の反駁については、直接的には否定出来ません。が、逆に皇后に史書にない実子がいたとして、劉センとの間に後継争いがないのは解せません。正嫡ではなく庶子が優先されるのかな、という。まあ、早逝したために後継争いはなかったとかもなくはないですがね。あとは、敬哀皇后や張皇后がめちゃくちゃ良い人で譲ったとかかな?

最後については、魏や呉ではまずあり得なかったけど、蜀は穆皇后に子が確認出来ないという先例があるため、許されるかな、と。というか、蜀は政略結婚が多いし、寵姫を皇后にする発想がない感じ。

だから、親子揃って妾作る発想に行くのかも。


とまあ、こんな感じです。レポートチックになった感ありますね……。

あ、あくまでも私の仮説ですから、信用しちゃダメですからね! 三国志ヲタクの世迷い事程度に聞きましょう。

ただまあ、こういう事を色々考えられるのが三国志の面白さだと思います。いささか、マニアックですがね。桃園の方々に引かれなきゃいいけど。

答えはないので、興味があれば皆様も考えてみましょう!

雑な勧誘。

では、失礼!
更新日時:2019/07/12 19:42
(作成日時:2019/07/12 19:40)
コメント( 4 )
4件のコメントを全て表示する
おかか容疑者
おかか容疑者
7月13日 6時16分

『劉禅の娘は諸葛瞻』で文が切れていて、それでなんか納得しそうになってしまったのが怖い。かわいいね。
後継者争いを起こさないために敢えて皇后との子を設けなかったのだとしたら劉禅はしっかり歴史から学んでますね(血涙)

Chaos
Chaos
7月13日 8時4分

自分は敬哀皇后は病弱説で行こうかなと。
劉禅が後宮をいっぱいにしたいと思っていたとか、大赦の乱発とか、とてもその後に起こることを予測して動いていたとは思えないです…
あ、でも人によって止められていたとかも考えられるのかな…?
夏候覇とのやり取りは実子じゃない説もありかもしれませんね。まるで当然のように劉禅と張皇后の実子みたいに言われているような節があるけど、そうじゃない可能性もありますからなあ。
夏候氏の甥にあたるってはっきり言っているのがちょっと気に掛かるけど…(早逝したのかな…?)
まさか実子の名も無き娘はいたけど、娘を甥って言っちゃったんじゃないだろうな!?w

燈蝋之斧
燈蝋之斧
7月14日 11時43分

>>Zeroさん
年表開始頭から飛ばした内容。山で薪拾いしてた夏侯月姫を捕まえたのは、本当です。張飛ロリコン扱いされる原因ですね。
>>おかか容疑者さん
カードイラスト的には、劉禅も諸葛センも可愛いし、娘としても成立する……? 孔明さん、ごめんなさい。
皇后との子がいたかはともかく、庶長子の劉セン建てて問題は起きてないので手はうってるっぽいですね。悪い先例は沢山いましたし……。
>>Chaosさん
多分、30そこそこで敬哀皇后は死んでいるので、病弱の可能性は高いですね。深読みするなら、侍女の王貴人を寵愛したのは敬哀皇后の周りで代わりの女性として建てられたとかかも?
夏侯覇のやり取りは、ニュアンスの問題で解釈の幅が広がりそうですし、実子の確証にはならないかな、と。国母の張皇后の義理の息子=夏侯覇の甥みたいな?
まさかの言い間違え。でもまあ、名前が出ない理由としてはわか……いや、わかりません!

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