歴史関係の書籍を読んでいると、一時代を築いた権力者の家系に触れ、関心を寄せることが有ります。
三国志の時代では、
袁紹の先代まで四代に渡って皇帝を補佐する最高峰の官職である
司徒(行政の長、今で言う総理大臣)・
太尉(軍事の張、今で言う防衛大臣や警視総監)・
司空(司法の長、今で言う法務大臣)の三公を歴任するという、
「四世三公」で当時を轟かせた
袁家。
「乱世の奸雄」や
「超世の傑」と讃えられ、中原の覇道を統べく魏の礎を築いた
曹操。
そして、曹操の後を継いだ曹丕が魏王朝を建国するに至った
曹氏。
(2022年、★権中納言の歴史語り★、『あれからの曹魏の歴史』より)
他に取り上げるとすれば、やはり、初代・光武帝から14代・
献帝まで後漢王朝の皇帝として君臨した
劉氏は外せないでしょう。
実はこの劉氏、三国志の時代が終わっても、異国の地・日本で輝かしい功績を治めることになったのです。
では、どんな功績を治めたのか見てみましょう。
289年5月。後漢王朝最後の皇帝・献帝(劉協)の玄孫(やしゃご)に当たる
劉阿知は、天下の情勢が乱れていた為か、息子の
劉都賀(りゅうとか)ら男女合わせて2000人余りを率いて日本へ渡来しました。
応神天皇(おうじんてんのう)は、劉阿知を「東漢使主(とうかんのおみ)」に任じ、一族は大和国桧前(ひのくま)村(現在の奈良県高市郡明日香村)に定住しました。
劉阿知とその一族は、絹織物や製鉄などの技術を日本に伝授した事により、皇室からも重用されて要職を歴任しました。
そして、劉氏は子孫を繁栄させて、末裔は大蔵氏(おおくらし)、高橋氏(たかはしし)、原田氏(はらだし)など日本の有名な氏族・子孫へと分かれ行きます。
その中で際立った子孫として、平安時代初期に征夷大将軍として、蝦夷地(現在の東北地方)の反乱を平定した
坂上田村麻呂が挙げられます。
このように、劉氏は、
日本史上最大規模の渡来人氏族の一つとなったのです。
現在でも、劉阿知を祀ったとされる「
於美阿志神社」が遺っており、
また劉氏の子孫達は、定期的に河南省焦作市にある献帝淩へ参拝しているとの事です。
【劉曼皇甫嵩vs群ケニア】
今回は勝ちはしたものの、色々と反省材料の多い内容となった動画となりました。
まずは劉曼を使う直前に、皇甫嵩が不用意に前へ出過ぎた原因で使った直後の撤退です。
これなら、まだ蒯越が出るのを待った方が良かったですね。
そして張機を使った場面では、皇甫嵩を入れるまで我慢できましたし、ここでも不用意に皇甫嵩が前に出過ぎてしまった結果、相手のカウンター董卓であわや落城寸前💦
結果的に、法具(車輪)を絡めての皇甫嵩が間に合う形となりましたが、法具もほとんど腐った形で、普通に再起で良かったと思う対戦でした(-_-;)
献帝の子孫が日本に渡来していたとは全然知りませんでした!?勉強になりました、ありがとうございました(^^)/
ということは、298年頃の日本の中心、倭の都は奈良だったんでしょうね?
新皇さん
まさか、しかも2000人も渡来ですからね(・o・;)
きっと、卑弥呼の時(240年代前後)からコンタクトを取り続けた結果、奈良が都だとわかったのでしょう(^_^)