今回は久々の歴史投稿、劉備と牽招が結んだ契りを紹介します。
三国志の代表するエピソードの一つに、
「桃園の誓い」が有ります。
その内容とは、『三国志演義』の中で、劉備・関羽・張飛の3人が桜が咲き誇る宴会にて義兄弟の契りを結び、生死を共にしようという誓い。
横山光輝『三国志』より
しかし、正史には、劉備たちがその様な契りを結んだ記述が見当たりません。
一方、劉備と牽招がリアル桃園さながらの
「刎頸(ふんけい)の交わり」を結んでいるのです。
それでは、メジャーな部類の劉備はさることながら、マイナーな部類の牽招の生い立ちを辿ってみましょう。
牽招は河北の冀州の出身。
10代の頃、同郷の楽隠と共に官吏職に就いた何苗に随従しました。
189年、霊帝の死による動乱で何苗と楽隠が殺された為、牽招は他の門下生と共に楽隠の棺を守って帰郷しようとしていました。
しかし、途中で賊に襲われると、牽招が棺に抱きついて見逃すよう泣いて頼んだところ、賊はその義侠心を認め牽招を見逃したのです。
この牽招の義侠心は、青年期の劉備と交流した際に意気投合をし
「お互いに首(頸)を切られ(刎ねる)たとしても悔いることがない仲」
という友好レベル
「刎頸の交わり」を結んだのです。
話がやや反れますが、この刎頸の交わりは、もともと春秋戦国時代、趙という国にいた藺相如(りんしょうじょ)と廉頗(れんぱ)の二人が結んだのが始まりだそうです。
横山光輝『史記』より
話を戻して、刎頸の交わりを結んだにもかかわらず劉備と牽招は、残念ながら青年期以降は離れ離れとなりました。
結んだ後、二人の仲に何かの溝が生まれたのでしょうか?
もし二人がそのまま組んでいたら、いや
牽招が蜀のライバル国・魏に就かなかったら『三国志演義』で記されていたかもしれませんね。
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
そんなエピソードがあったとは!
かなり気になる歴史ミステリーですな。
楊狐さん
こちらこそ、今年もよろしくお願いします。
牽招のカードの裏面(武将紹介)に「劉備と交流が有った」とされていますが、ここまで友好度だったのは驚きました。
逆に何故劉備に仕えなかったのかがミステリーですね。