こんばんは! 燈蝋之斧です!
最近、自分の料理をツイに上げるたびに、自分は大戦勢ではなくて料理勢のが正しいんじゃないか? と毎回思う私です。料理している時や、美味しんぼ再現についてアレコレ語っている方がらしい感じ。美味しんぼ知識一流、料理と史実知識は二流、大戦の腕は三流、張春華さんへの愛は四流なのがこの私です。好きこそものの上手なれですね! つまり張春華の事は別に……、いえなんでも。
さて、今日は久々に史実解説でもしようかと思います。最近ご無沙汰でしたしね。プレイ以外に絵や料理やらで忙しかったけん、仕方なか。
それでまあ、今日解説するのは久々に呉の方、孫登について解説してみたいと思います。
何故、孫登かというと、呉の人物の中でも屈指のまともな人&聖人だからです。親父はアルハラの孫権、母は嫉妬深い徐夫人と養育環境的には大分アレな気もしますが、かなりまっとうに育ちました。呉夫人の隔世遺伝かな?
なお、孫登は若死にのため皇帝にはなれませんでしたが、皇太子としては結構評価されています。陳寿も孫登を豊かな徳の持ち主と評してました。曹丕の対極にあるタイプな感。日本でいうと平重盛タイプな気もする。
では、始めます!
・孫登(字名:子高 生没年209〜241年)
孫権の長男。母親は徐夫人。でも、実母ではなく養母。本来の母は身分が低く、代わりに正室の徐夫人が養育したそうです。嫡男扱いはされてますが。
なお、徐夫人は後年に孫権と仲が悪くなり別居しますが、孫登は徐夫人を慕い続けて礼儀を欠かさなかったそうです。徐夫人が贈り物を孫登にした時は、毎回沐浴してから受け取ったとの事。徐夫人、意外と賢母だった説ありそうな。実際問題、嫉妬深いから孫権に嫌われただけで、何か具体的にやらかした経歴はないですからね。
ちなみに、歩皇后とも別に仲悪くはなく、礼儀はきっちりしていました。歩皇后からの贈り物も拝受はしたそうです。沐浴まではしなかったけども。大人な対応をする孫登。
ただ、孫登としては皇后は自分の母の徐夫人推しであり、229年の孫権皇帝即位時は、歩皇后の皇后位について臣下共々反対しました。まあ、これは心情的にも儒教的にも国の慣例的にも正しいです。皇后と皇太子に繋がりがないのはマズイので。だから、歩皇后の皇后位は孫権のみ賛成だった模様。
上記件と孫登の養育から考えるに、徐夫人はそこまで問題のあった人物ではなかった様にも思えます。魏でいう所の丁夫人と被る気もしますね。
そのため、孫権は238年に歩皇后が死んでから皇后位を追贈しました。その際は孫登も反対してはいない様です。徐夫人は皇后にはなれず。父親の心情を察して、歩皇后への皇后位追贈を許したとかですかね? 大人な対応に定評のある孫登。
ちなみに自分の弟の孫慮(孫権次男で20歳で死亡)が亡くなり、孫権が悲しみで食事が取れなくなった際は自ら建業まで来て、孫権を涙ながらに見舞い、なぐさめたそうです。孫登のママみが凄い。尊いなぁ……。
(番外:孫権は自分の子供を大分可愛がっており、孫登や孫慮に孫和や孫覇、孫亮等、寵愛の記録が大分残っています。孫登や孫慮が自分より先に死んだ時は、相当悲しみました。歩皇后が死んだ時もかなり悲しんでいるし、元々愛情が深いタイプな気がします、孫権。二宮の変もこの愛の深さが、間違った方向に発露した節ありますしね。なお、曹操は自分の子に身代わりさせた上典韋の方を惜しんだり、自分の子の名前覚えてなかったり。劉備も劉備で、自分の家族置き去りで逃げるわ、劉禅アホなら孔明が国継げとか言ってます。家庭人としては孫権のがまとも。でも、天下人としては自分の子より臣下を重んじる曹操や劉備が正解でしょう。お家問題起きてないしね。この2人はなんか規格外な気もしますが)
孫登自身、かなり性格は良く、四友の陳表らが主従の枠組みにとらわれ過ぎているとして冠を外す様命じたり、車に同乗したり、寝食を共にしたりと結構フランクに接してました。先に死んだ陳表については、遺族の為に家まで建てていたりします。あと、孫和とも仲が良かった模様。そのため、後年の二宮の変時は孫登に近いものは大体孫和派になっておりました。
ちなみに彼のぐう聖ぶりを示す逸話は他にもあります。下記参照↓
・狩りにでる時は常に良田を避け、苗を踏まない様に気を付けた。
・乗馬中に弾が掠めた際、犯人と思わしき者を捕まえ処罰しようとする部下を止める。よく調べた所、孫登を掠めた弾は犯人と思われた人が持っている物と違う事判明。冤罪を防ぐ。
・金の碗を盗んだ近侍に罰を与えるのが偲びなく、訓告の上謹慎に留める。なお、側近には他の者にこの事を言わないよう言った。
思慮深いというか、わかりやすく聡明な感じ出てますね。最後の逸話とか、やらかした部下に対する理想的な対応な気しますし。酒の席で処刑宣言する親父との差が凄い。
こんな感じなので、孫権もかなり孫登を寵愛しました。若死にした時はかなり悲しみ、国中に喪を発しました。また彼の遺書を読んで、更に悲しんだと言われています。
なお、彼の遺書は自分と仲が良く孫権も寵愛する孫和を後継にする事、陸遜や諸葛瑾、歩騭、朱然、朱拠、全琮、呉サンや張承らを重用するよう書いてありました。後の二宮の変で死んだり、殺されたり、ベトナム送りになったメンツも大分混じってますね……。一体、誰が犯人なんだ?(すっとぼけ)
彼の死後、孫権が大分迷走した事を考えれば、孫登の死は呉にとってかなりの痛手でした。まあ、他の孫権の子も割と能力はあるんですがね。問題なのは、御家騒動起きた事な気がします。お隣の蜀が劉禅一代で緩やかに衰退していったのに対し、呉はドラスティックに燃えた感。低スペックで頑丈な劉禅に対し、性能は良いけどちょいちょい壊れる呉の皇帝といった所か。
とまあ、以上。なんだか久々に史実について語ったから、あまり取り止めがない感じになりました。適当にスパイス入れて作ったカレー的な感じね。
あ、そういえば、前消失した張春華Masterですが、今は無事Master復帰してます。まあ、いつまで持つかわからないけども。あと、10日位は持ってくれよ……俺の身体!
吐血する癖に死ぬ死ぬ詐欺かますパイロット並感。
では、失礼!
若いころから問題児(優秀だけど)な孫権の子供とは思えない聡明ぶりですね。
孫登の遺書の内容をきっちり全うしておけば
二宮の変が起こらなかった可能性が微レ存?
孫権がアル中になった原因のひとつは孫登の死だと思ってます。
こんなところで重盛公の名前が聞けるなんて!
久々の史実ネタ、いいものですね
>>七歩之才さん
孫登はしっかりしてますね。孫権のはっちゃけは引き継がずにまともな部分だけ、引き継いだ感じです。寿命も引き継いでいれば……。
>>不屈のパッチさん
まあ、孫和と孫覇を同等に扱わなければ二宮の変はなかったので、それはありますね。ただ、呂壱事件とかもありましたので別に何か起きてそうではあります。豪族政権ですし。
>>うさまるさん
耄碌したのは孫登の死がきっかけでしょうねぇ……。
>>金村保坂非道さん
重盛公や毛利隆元とか地味だけど優勝な長男が私好きです笑
大分サボってましたからね……。最近は料理お絵描き張春華の人でした😅