三国時代で大きく広まった故事成語の中で有名なのは、もちろん【三顧の礼】でしょう。
劉備から三顧の礼を受ける前、諸葛亮は仕えるべき主君が現れるまで、晴耕雨読の日々を送ったとされています。
その期間は、197年から207年。
実に10年の歳月を送っていたのです。
もし、諸葛亮が成人して直ぐにどこかの君主に仕えようとする意志が有ったとしたら、どこだったでしょうか。
それは、真っ先に諸葛亮が身を寄せてた地、荊州を治めた劉表となります。
まず、劉表から諸葛亮までの血縁関係を見てみましょう。
劉表=蔡氏ー蔡瑁ー蔡瑁の長女=黄承彦
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劉琮 黄月英=諸葛亮
このように、諸葛亮は、荊州の名士・黄承彦の娘である黄月英と結ばれました。
黄承彦は、地元の有力豪族・蔡瑁の長女と婚姻関係であったから、諸葛亮と蔡瑁とは義理の叔父。
更に蔡瑁は、次女の蔡氏が劉表の後妻して迎えられている事から、諸葛亮と劉表とはこれまた義理の叔父。
また更に、諸葛亮の叔父(諸葛亮の父である諸葛珪の弟)・諸葛玄と劉表とは旧知の仲とされていたのだから、劉表は諸葛亮の存在を早く知ってたでしょう。
荊州の牧・劉表に対し、その劉表に身を寄せた劉備。
疎遠ながら血縁関係の有る劉表に対し、血縁関係の無い劉備。
血筋がはっきりしている劉表(前漢六代皇帝・景帝の子、恭王の末裔)に対し、血筋がはっきりしていない劉備(同じく景帝の子、靖王の末裔とされるも、途中で詳細を省いている)。
これだけ劉表に分が有りながら、何故、諸葛亮は劉表に仕えなかったのでしょうか。
①劉表の野心の無さ
荊州平定前は、それなりの野心が有ったものの、平定後には、領土の拡大よりは荊州の維持に重点を置いてしまった。
典型的な例は207年、曹操の鳥桓討伐で出かけたのを機に、劉備が許都の急襲を提案するも却下してしまう。
この様な有様は、「荊州学」を学んだ名士層・知識人にとって、大いに失望したそうだ。
諸葛亮の師匠・司馬徽に至っては、劉表からの勧誘を断り続け、話の場を設けることすら避けたという。
②蔡瑁・蒯越の存在
当時、劉表政権の下では、蔡瑁・蒯越が重臣として君臨していた。
劉表の跡目争いでわかるように、この二人の影響力が強いので、仮に献策しても採用されないと見たのだろう。
では、劉備に仕える決め手は何だったんでしょうか。
①三顧の礼
三顧の礼は、長坂坡の戦いまで劉備に仕えていた徐庶の提案で実行された。
三顧の礼は、本来、既に一線を退いた儒者を宰相に迎える時に行うとされた最高の礼儀形式である。
この場合、劉備軍の筆頭軍師は、徐庶を差し置いて、諸葛亮を据えるという意味である。
当時、完全な浪人の身分である諸葛亮に対して、漢の左将軍・豫州牧の肩書を持つ劉備が自ら訪ねるのだから、諸葛亮は断り切れないだろう。
②関羽・張飛の存在
当時の劉備軍は、劉表の客将であったとは言え、武勇高い関羽・張飛を中心とした相当な傭兵集団で名を知られていた。
つまり、有能な軍師・参謀が劉備軍についたら、相当な勢力に成り得る可能性が有ったのである。
そのトップ、劉備からアプローチされるのだから、諸葛亮にとって名声を得る事に繋がったのである。
③アンチ曹操で一致
諸葛亮は徐州の出身で、曹操による「徐州の大虐殺」によって、徐州を離れた。
その直後、劉備は徐州牧に迎えられたのは、諸葛亮にとって大きな関心を抱いていたようだ。
そして、二人とも曹操に住むところを追われたのだから、「アンチ曹操」もしくは「打倒曹操」で一致したのだろう。
このようにして、諸葛亮が劉備に迎えられました。
この事は、「荊州学」を学んだ名士層・知識人の名声獲得や地位の向上にも繋がる事になったのです。
以上となります。
次回は、三顧の礼と並ぶ有名な故事成語「泣いて馬謖を斬る」について投稿します。